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ルーヴルのピラミッドよ、永遠に I.M.ペイとミノル・ヤマサキ 対照的な2人の建築家秘話

飯塚真紀子在米ジャーナリスト
ペイ氏の代表作、ルーヴル美術館にあるガラスのピラミッド。(写真:ロイター/アフロ)

 世界的建築家、I.M.ペイ(イオ・ミン・ペイ)が逝去した。

 ペイというと、多くの人々は、ペイが創ったルーヴル美術館にあるガラスのピラミッドを思い起こすだろう。

 筆者の脳裏には、滋賀県の山中にある、MIHO MUSEUM(ミホ・ミュージアム)という美術館のテラスから見えるある光景が蘇る。

 その光景には2つの建築物が映し出されていた。一つは“ベルタワー”と呼ばれるペイが創った塔。もう一つは“教祖殿”と呼ばれる日系2世の建築家ミノル・ヤマサキ(愛称ヤマ)が創った宗教建築である。

 それは、ペイとヤマサキのコラボと言える“屏風絵”のように美しい光景だった。

 

 1917年生まれのペイと1912年生まれのヤマサキ。

 ヤマサキは1986年に先立ったが、2人のアジア系アメリカ人建築家は同じ時代を生き、歴史に残る建築物を創った。最も知られているペイの建築物がガラスのピラミッドだとすれば、ヤマサキの場合、それは9.11で崩落した世界貿易センタービルだろう。

ペイに説教

 1960〜1970年代、アメリカの建築界で活躍した2人は交流があった。ある時、2人のディナーのテーブルに同席したのが、世界貿易センタービルの構造設計を手掛けたことで知られる構造設計エンジニアのレスリー・ロバートソンだ。2人をよく知るロバートソンは、筆者がヤマサキの人物評伝『9.11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』を執筆するにあたってインタビューした際、その時の様子をこう回想した。

「それはひどいディナーでした。ヤマが、ペイが創ったボストンのジョン・ハンコック・タワーのガラスが壊れた事件を論い、ペイに説教を始めたからです」

 1973年、ボストンにあるジョン・ハンコック・タワーは暴風でたくさんのガラスが崩れ落ちたために閉鎖され、ボストン市民を不安に陥れて問題となっていた。そのことで頭を痛めていたに違いないペイを、ヤマサキは批判的な口調で説教したという。ペイは気分を害してしまったのか、2人の間には穏やかならぬ空気が流れた。ロバートソンは2人の間に入って、そんな空気を和らげようとしたという。

ボストンのチャールズ・リバーを見下ろすように聳え立つ、ペイが創ったジョン・ハンコック・タワー。筆者撮影。
ボストンのチャールズ・リバーを見下ろすように聳え立つ、ペイが創ったジョン・ハンコック・タワー。筆者撮影。

対照的なペイとヤマ

 ヤマサキはなぜペイに説教したりしたのだろう? それについて、ロバートソンは、

 「ヤマは、ペイを助けたいという善意から、ペイにアドバイスをしているつもりだったのかもしれません」と話したが、そこにはもっと複雑な思いがあったのではないだろうか?

 ロバートソン曰く「ペイとヤマは建築に対するアプローチにおいても、性格においても、対照的な建築家だった」からだ。

 ペイは、ガラスのピラミッドで代表されるように、ガラスを駆使した建物を遺している。一方、ヤマサキはガラスを使うことには否定的で、“反ガラス”の姿勢を貫いていた。そのため、ガラスを使った建物が隆盛していた当時、ヤマサキは建築界では異端視されていた。世界貿易センタービルを設計するにあたっても、できるだけガラスを使わず、多くの柱を使って彫刻のような美を生み出そうとした。

ペイの代表作、ルーヴル美術館にあるガラスのピラミッド。筆者撮影。
ペイの代表作、ルーヴル美術館にあるガラスのピラミッド。筆者撮影。

 また、2人は建築へのアプローチも異なっていた。ペイは創ろうとする建物を頭の中で視覚化して語ることができたが、ヤマサキはうまく視覚化できないために模型造りに力を入れた。

 性格も正反対だった。中国広州市の裕福な家に生まれ育ち、人の話にもよく耳を傾け、場に馴染むことができたペイ。一方、日本から移民した両親の下、シアトルのスラム街で育ったヤマサキは柔軟性がなく、自分の意見に固執した。

 同じアジア系アメリカ人ながらも自分とは正反対で、自分よりも優れているかに見られているペイに、ヤマサキは心のどこかで対抗心や嫉妬心を抱いていたのかもしれない。それが、「ペイに対する説教」という形になって現れたのではないか?

ペイへの敬愛

 また同時に、ヤマサキはペイにある種の優越心も感じていたのかもしれない。当時、ヤマサキは世界貿易センタービルを創ったことで、世界の注目を浴びていたからだ。

 世界貿易センタービルのデザインについては、ヤマサキ以外に、ヴァルター・クロビウスやフィリップ・ジョンソン、ルイス・カーンなど当時の名だたる建築家約40人が建築家候補に選出されたが、ペイもその一人だった。しかし、最終的にはヤマサキが選ばれた。

 

 ペイが選ばれなかったことについては、関係者の間では意見が別れている。

 当時、ニューヨーク港湾局の副局長を務めていたリチャード・サリヴァンは筆者にこう話した。

「世界貿易センターの設計については、何人かの建築家からは“興味がない”という返事がきました。ペイもその一人でした。彼は世界貿易センタービルのような大プロジェクトはやりたがらなったのです」

 一方、当時、ニューヨーク港湾局が世界貿易センタービル建設のために設けた「世界貿易部」の部長を務め、建築家選定に大きく関わっていたガイ・トゾーリはこう記憶している。

「ペイは世界貿易センタービルのプロジェクトをやりたがっていましたが、我々は彼を選ばなかったんです」

 いずれにせよ、選ばれたヤマサキには、世界貿易センタービルの建築家としての自負があったことだろう。そんな自負心が、彼を思わず「ペイに対する説教」へと導いてしまったのかもしれない。

 そんなヤマサキだったが、ロバートソンは感じていた。

「ヤマはペイを敬愛していた」

ペイとヤマのコラボ

 ヤマサキのペイへの敬愛は、冒頭で紹介した滋賀県にある神慈秀明会の建築物に現れている。

 神慈秀明会は滋賀県山中にある教祖殿を建築するにあたり、ペイとヤマサキの2人を最終候補に絞り、最終的にヤマサキを指名した。ヤマサキの設計による教祖殿が1983年に完成した後、神慈秀明会はベルタワー(カリヨン塔)という塔の設計もヤマサキに依頼しようとしたが、かなわなかった。1986年、ヤマサキが他界したからだ。

 ヤマサキは言い遺していたという。「自分の後をやるなら、ペイだね」と。

 ペイはヤマサキの遺志を引き継ぎ、ベルタワーを、ペイが京都の店で買った象牙の三味線のバチをモチーフにしてデザインし、1990年に完成させた。

ペイが三味線のバチをモチーフにしてデザインしたベルタワー。www.shumei.or.jpより
ペイが三味線のバチをモチーフにしてデザインしたベルタワー。www.shumei.or.jpより

 その後、ペイは、教祖殿の隣の山中にあるMIHO MUSEUMも創った。筆者は、拙著取材時、教祖殿とベルタワーを訪ねた後、MIHO MUSEUMにも足を運んだ。美術館のテラスから谷を隔てて見える教祖殿とベルタワーの絶妙なハーモニー。思わず、息を飲んだ。

 その時、学芸員の女性がこんな話をしてくれた。

「ペイさんは、テラスの高さを5メートルずつ変えながら、教祖殿とベルタワーが最も美しく見える位置にテラスを配置したのです」

 ペイはヤマサキがデザインした教祖殿と、自分がデザインしたベルタワーが美しく組み合わされるような地点を捉えて、テラスから望むみごとな“屏風絵”を作って見せたのだ。

 それは、ペイとヤマサキのコラボといってもいい美しい“屏風絵”だった。

教祖殿とベルタワーを望むMIHO MUSEUMの大きな窓は屏風絵のようだ。www.miho.or.jpより
教祖殿とベルタワーを望むMIHO MUSEUMの大きな窓は屏風絵のようだ。www.miho.or.jpより

 そんな2人のコラボが完成してから4年を経た2001年9月11日、ヤマサキが創った世界貿易センタービルは同時多発テロの標的となって姿を消した。

 その悲運の最期を思うと、願わずにはいられない。

 

 ルーヴルのガラスのピラミッドよ、永遠に!

 R.I.P. I.M.PEI, R.I.P. Minoru Yamasaki

在米ジャーナリスト

大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

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