【深掘り「鎌倉殿の13人」】北条政子が「尼将軍」と呼ばれた知られざる理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、謀反の嫌疑で実衣が捕らえられ、北条義時に殺されそうになった。実衣は、その後どうなったのか、この点について詳しく掘り下げてみよう。
建保7年(1219)1月に源実朝が公暁に殺されると、幕府の課題は実朝の後継者問題となった。幕府としては、後鳥羽上皇の2人の子(親王)のどちらかを次の将軍に据える約束になっていた。
しかし、後鳥羽は摂津国倉橋荘・長江荘の地頭の交代問題(義時が地頭の交代を拒否した)などがあったので、親王を鎌倉に送ることを拒否した。その後、三浦義村は、摂関家から新将軍を迎えることを提案した。
そして、当時はまだ2歳の九条道家の三男「三寅」(のちの頼経)が摂家将軍として、鎌倉に招かれた。道家は兼実の孫で、道家の母は頼朝の妹と一条能保の間にできた娘だった。「三寅」は頼朝の妹の曽孫なので、新しい鎌倉殿にふさわしい血筋だったのだ。
ところが、「三寅」は幼かったので、北条政子が代わりに政務を執ることになった。政子は鎌倉殿のごとく振舞ったので、以降、『吾妻鏡』は政子が亡くなる嘉禄元年(1225)に至るまで「鎌倉殿」として扱った。
政子は「尼将軍」と称されているが、当時からそう呼ばれていたのではない。『吾妻鏡』は、「御台所」、「尼御台」、「三位家」、「二位家」、「禅定二位家」、「二品禅尼」、「二位殿」、「平政子」などと記す。
前近代の史書の類では、政子のことを「従二位平の政子」、「二位殿」、「政子」などと書いている。おおむね『吾妻鏡』に依拠していたと考えられる。政子を「尼将軍」と記した早い例は、歴史家の頼山陽(1781~1832)の著作がある。
山陽は1828年に刊行した『日本楽府』(国史に題材を採った詩集)の中で、政子に「尼将軍」という呼称を用いた。近代に至ると政子を「尼将軍」と称する例は増え、現在では「尼将軍」といえば、政子のことを意味するようになったくらいである。
とはいえ、政子の役割は、あくまで幼少の「三寅」が成長するまでの中継ぎだった。政子は頼朝を彷彿とするようなカリスマ性、高い行政手腕を持ち、来る承久の乱では大活躍したのである。