甘えた権力者の「おねだり」を抑制する仕組みを整える
最近、「おねだり」というキーワードが世間を賑わせている。
いびつな正義感を振りかざし、インターネット上で人を叩くことを筆者は好まない。ともあれ筆者は、権力者が部下や影響力を行使できる人たちに対して金品を要求する行為を「おねだり」と表現することには違和感を覚えるし、言葉の誤魔化しが与える社会的影響の大きさを考え見れば、一言もの申しておいた方がよいと考えている。
まず「ねだる」は当て字で「強請る」と書くが、同時にこれは「ゆする」とも読まれる。そして「ねだる」ことは、幼児や女性が甘えて人に物をせがむ行為であり、「ゆする」ことは人を脅かし、動揺させることで無理に金品を出させる行為を意味する。そうであれば権力者の行うそれは、「ねだる」ではなく「ゆする」の方が正しいのではないかと、率直に感じるのである。
一方で観察を続け、少しながら考えを巡らせば、今回のおねだり騒動の場合には「ゆする」ではなく「ねだる」の方が適当とも思うようになる。報道を真に受けるならば、当人が幼児性を発揮したことにより、金品を要求してきたようにも思われるからである。そこには甘えの感情が生じており、少しくらいなら頂戴しても問題なかろうとの浅慮な姿勢がみられる。もう少し、もう少しと甘えの感情は増大し、まるで我儘に育てられた子供のように、要求に歯止めが利かなくなったのだと推察される。
言葉遊びをしているつもりはない。実のところ、権力を手にした人は、多かれ少なかれ甘えの感情が生じるものだからである。「ねだる」も「ゆする」も表裏一体。同じ「強請る」の漢字を充てるのも、もしかしたらこれが理由かもしれない。
権力は人を腐敗させる
すべての人は利己心をもつが、それを強く表に出すかどうかは、当人の性格とともに、置かれた環境や状況によるところが大きい。
以前にカリフォルニア大学のダッチャー・ケルトナーの研究を取り上げたことがあるが、例えばチームで作業する際、特定の人に他のメンバーよりも上位の役割を与えたとき、その人は「自分には他の人よりも多くを得る価値がある」と無意識に思うようになる。また、権力を貪り、衆目を意識できなくなって、みっともない姿をさらす傾向もみられる。
同様に、ペンシルベニア大学のアダム・グラントによれば、人から奪うタイプのテイカー(くれくれさん)が権力を手にすると、部下や同僚にどう思われるかを気にしなくなり、利己的な目的を追求し、できるだけ多くの価値を手に入れる権利があると感じるようになる。やがて、同僚や部下を冷遇したせいで、彼らとの関係が壊れ、自分に対する評価もガタ落ちになるという。
各種の心理学の研究に従えば、権力者は他者の置かれた状況や感情への共感性が低くなる傾向がみられる。そのため、例えば部下や周囲が嫌な気持ちになることを考えず、平気でそしり、人格を貶めたり、高圧的な態度で自身に従属させたりする。実際に権力者による暴言は、周囲の仕事能力に支障をきたす。ジョージタウン大学のクリスティーン・ポラスによれば、暴言を吐かれた人は処理能力が61%、創造性が58%下がる。また、他人が暴言を吐かれるのを目撃しただけでも、処理能力が25%、創造性が45%下がるという。
かくして権力者の横暴は、それが向けられた特定個人のみならず、組織全体に悪影響をもたらす。対して部下は自己防衛のために、しだいに権力者の意向や無理難題に無批判に従うようになる。萎縮し、自分の意見や考えを主張しても無駄だと感じるようになり、しばらくは権力者の横暴を見過ごすのである。
これらの傾向が合わせ技となり、権力者は自身の要求が通らないときには、感情をむき出しにし、あるいは立場を誇示して、なおも無理を通そうとするのである。恐ろしいのは、彼らは無自覚に、それらを実行に移していることである。アクトン卿は権力は腐敗すると述べたが、より正確には、権力は人を腐敗させ、堕落させるのである。自分では悪いと思っていないものだから、他者に指摘されたとて、深刻な問題と気づくことも難しい。
圧政に耐えかねた人びとは、ついには対抗できる権力に訴え、権力者を引きずり降ろそうとする。不正の告発や体制の崩壊は、このようにして起きる。
権力を均衡させよ
だから権力者は悪くない、と宣うつもりは毛頭ない。権力者の身勝手なふるまいを見逃したり、権力者と部下が対立構造を生み出したりといったことでは、組織は機能しなくなり、いずれの仕事も頓挫するばかりである。
ケルトナーの解決法は、自覚と行動である。つまり権力者は自身の言動や感情を冷静に見つめることが重要だと結論づけるのだが、先に述べた通り、彼らは悪びれてさえいないのが実際である。そうであれば、仕組みや制度、システムの整備により、権力者の自覚を促し、暴走を食い止める必要がある。
個人のモラルに訴えるよりも、抑制することが望まれる。例えば政治の世界では、古くは混合政体というシステムが採られてきた。君主、貴族、民衆に基づく混合政体では、各々の立場における権力が垂直的に分立し均衡することで、国家が全体として機能する。あるいは衆議院と参議院による二院制もまた、相互に権力の暴走を抑制する働きが生じている。
重要なのは、たえず権力が「均衡」している状態をつくることであり、民衆が権力を「拒絶」できる状態をつくることではない。民衆の側の不満がつのり、ひとたび対立の図式が生じてしまうと、数で勝る民衆の方が強い力をもつ。そして民衆もまた、パンとサーカスを与えられて満足する衆愚に陥っては、あれこれと際限なく要求する姿勢が現れる。少数の権力者が腐敗するように、多数の権力者もまた腐敗するのである。そして後者の場合、少数の者が権力をもつ場合よりも抑制が効かなくなる。
組織の構造は、運営の目的や各々の事情に応じて異なっており、具体的にこうすれば均衡が実現されると明示することは難しい。とはいえ、それぞれの組織の内実を踏まえ、日常的に相互の言い分に耳を傾けられ、また事実を正しく認識し、都度の誤りを指摘し合えるような仕組みを整えるのが望ましいことは、共通している。権力は人を腐敗させるという、まぎれもない事実に向き合うとき、人間の弱さを前提とした機能する組織づくりが可能となる。