アジアの冷戦が終わろうとする時に日本は大勢に向き合うことが出来るか
フーテン老人世直し録(368)
皐月某日
第二次世界大戦後、ソ連が崩壊するまでの日本外交は「絶妙」だった。しかしそれ以降の日本外交は「ない」に等しい。それが冷戦崩壊直前から米国議会を取材してきたフーテンの見方である。
1991年12月にソ連が崩壊した時、米国は欧州の冷戦体制は終わらせてもアジアの冷戦体制は終わらせず、中国と北朝鮮の脅威を理由に北東アジアに10万規模の米軍を配置して日本の属国化を進めることを国益と考えた。
戦後の日本外交は吉田茂が「軍事では負けたが外交で勝つ」と語ったように、日米安保条約を結んで軍事的に米国に依存する反面、持てる力を経済に集中することで米国経済を凌駕する一歩手前にまで日本を押し上げた。
象徴的だったのは1985年に日本が世界一の金貸し国となり、米国が世界一の借金国に転落したことである。危機感を抱いた米国はソ連に代わる最大の敵を日本経済と断じ、85年のプラザ合意と87年のルーブル合意で日本経済にバブルを起こさせ、それが破裂した後の「失われた20年」で日本経済の活力を削いだ。
他方で米国は日本に米国製兵器を買わせて軍事面での米国依存を強めさせ、日本の自衛隊を米国の軍事戦略に組み込んで米軍の歯車の一つにする安全保障体制の構築を進めた。
それに最も都合の良い存在が中国と北朝鮮だった。米国は中国の軍事的台頭と北朝鮮の核・ミサイル開発を「目の前にある危機」と日本人に思わせ、日本は米国の言われるままになる。日本外交が「絶妙」から「ない」に変わったのはこの時である。
しかし米国にトランプ大統領が誕生し、韓国と北朝鮮に文在寅大統領と金正恩労働党委員長が現れたことで、冷戦の残り火というべき「朝鮮戦争」を終わらせる動きが出てきた。それが実現すればソ連崩壊後の米国の世界戦略は180度転換される。
この世界史的な転換期を日本外交は乗り越えることが出来るのか。ソ連崩壊から現在に至る日本と米国の政治を同時並行で見てきたフーテンには強い危機感がある。
「絶妙の外交術」をフーテンに教えてくれたのは竹下元総理である。密教ともいうべき日本政治の裏の姿を教えてくれた。そもそも敗戦国の日本と西ドイツに平和憲法を作らせ非武装国家にしようとしたのは米国である。しかし1950年の朝鮮戦争勃発で米国は方針を180度変え両国に再軍備を促した。
西ドイツは要求を受け入れ憲法を改正して再軍備した。しかし日本の吉田茂は憲法9条を盾に再軍備を拒み、代わりに軍需産業を復活させて米軍の兵站部分を担うことにした。それが戦後復興の足掛かりとなる。
日本経済はベトナム戦争によってさらなる成長を実現するが、それは日本政治のからくりから生まれた。再軍備のため憲法改正を迫る米国に対し、自民党は水面下で社会党と手を結び、護憲運動を促して憲法改正させない3分の1の議席を与え続けた。
日本に社会党政権が生まれれば困るのは米国だと思わせ米国をけん制したのである。しかし現実には社会党が過半数を超える候補者を擁立せず、自民党と社会党は万年与党と万年野党が続くよう役割分担していた。
それが血を流さずに戦争を利用して金儲けに励んだ冷戦期の日本である。それを竹下元総理は「絶妙の外交術」と表現し、米国の歴史学者マイケル・シャラーも『「日米関係」とは何だったのか』(草思社)でそのからくりを紹介した。
ところが91年に起きた湾岸戦争が日本にとって試練となる。この戦争は国連が主導する集団安全保障の行使であり、それは第一次大戦後の不戦条約に合致するもので日本国憲法の平和主義にも反しないと小沢一郎は主張した。しかし長年にわたる護憲運動の結果、政治家も国民もその意味を理解することが出来ず自衛隊派遣は実現しなかった。
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