【戦国大名】ぜったい敵に回したくない!震えあがるほど覚悟がキマり過ぎだった名将たちの流儀・3選
多くの兵が日々、生き残りをかけてしのぎを削った、日本の戦国時代。
もちろん個々の才能や地政学的な環境もありましたが、平和な時代に比べれば総じて武力を磨き、どの大名も高い戦闘力を有していました。
しかし、そんな中にあってなお、他の勢力を圧倒する武将が存在し、その強さは尋常ではない精神力や、流儀が源となっていたのです。
同じ戦いに生きる武将たちをも恐れさせる程ですから、平和を生きる人間にとっては、もはや「狂気」を感じるレベルとも言えます。
正直なところ、現代の感覚に照らせば怖さも禁じ得ないのですが、この記事では具体的な人物とエピソードを3つ挙げ、ご紹介します。
戦国を生き抜く人物の圧倒的な迫力、その一端を感じて頂けましたら幸いです。
①【島津義弘】われらの命すべては主君のために
主のために命をかけて戦うのがサムライとは言え、負け戦となれば逃げますし、勝利の可能性があるならまだしも、確実に命を落とすとなれば、とうぜん突き進みたくはありません。
その覚悟さえ、個々の兵に刻ませていたのが・・島津義弘だけではなく、島津家の全体と言えるのですが、それが他勢力と一線を画す強さにつながっていました。
島津流の教育は、ただ黙って“上の言うことに従え”ではありませんでした。主君への忠誠は大前提ですが、家臣の一人ひとりが戦術を学び、時には仲間内で討論し、いざ戦場では「いま全体のために、自分が行える最善は?」を判断できる兵士が多数いたのです。
しかも日ごろから猛訓練を積んでおり、そんな集団が命がけで襲いかかってくるのですから、敵はたまりません。
かの関ヶ原の戦いにおいても、島津家が味方する西軍が総崩れとなり、徳川家康が勝利を確信したところに、島津義弘ひきいる鬼神の如き軍勢が突撃してきました。
徳川の本陣は約3万、島津勢は1500と桁違いの兵数差がありましたが、勝利が決まって安堵していた徳川兵は、死を覚悟して襲いかかる島津軍に、突き崩されてしまったのです。
島津義弘はそのまま徳川本陣のま横を通り抜け、戦場を離脱。とうぜん怒った東軍の大軍勢が追撃してきますが、前方を見れば道のど真ん中には、数人の島津兵が待ち伏せています。
そして、いきなり鉄砲を発射。驚いた追手は足を止めますが、たかだか数人ではたちまち袋叩きにあって、その場の島津兵は全員が戦死してしまいます。
「こしゃくなマネを!今度こそ島津義弘を討ち取るのじゃ」・・とばかり、ふたたび東軍は追撃しますが、道の真ん中には再び島津兵。
行く先々で、次も・・その次も、という具合で、多大な犠牲を出しながらも、ついに島津の本体は、九州まで逃げ伸びてしまったのです。
この1連の戦いは島津の“捨てがまり戦法”と呼ばれ、後々の世まで伝説となりました。
兵士が戦死確定の役目を引き受けるのも驚愕ですが、この一連の戦いで徳川四天王の1人、井伊直政が負傷(後にその傷が元で、死去と言われる)。徳川家康の四男も手傷を負ったという事実が、彼らの尋常ではない強さを物語っています。
なお、ここまで家康に逆らいながら、関ヶ原の戦い後に島津家は、領地を減らされていません。もし討伐となれば地理的に遠く、大変と言う事情もあったでしょうが「あんな奴らとは、まともに戦いたくない!」。そう感じさせる凄まじさが、大きかったのではないかと思われます。
②【立花宗茂】狂気と紙一重の"放し討ち”
前述の島津家と互角以上に渡り合い、島津義弘をして「あやつは、ただ者ではない」と認めさせたのが、今でいう大分県出身の“立花宗茂(たちばな・むねしげ)”という名将です。
彼は合戦で無双の強さを誇っただけでなく、人格者の一面もあり、部下に対しては決してひいきをせず、無理をさせず、少しの失敗は寛容に見逃すことが大切と、口にしていた武将です。
しかし、ひとたび大きな罪を犯す者や、秩序の破壊を目指す者に対しては一転、鬼のような態度で接し、それを物語るのが“放し討ち”という出来事です。
・・戦国時代の後半、立花宗茂の主君は島津家に滅ぼされる寸前を、豊臣家に救われました。以降、宗茂は秀吉に従う立場となりました。しかし、豊臣家が九州平定後、その統治に対する反乱(一揆)が勃発。
その鎮圧を立花宗茂が引き受けるのですが、戦術で圧倒して敵勢を撃破。そして伝説となったのは、その首謀者1族に対する処刑法です。
この当時、広く考えられていた価値観として、武士の誉れ高い死にざまとは、戦いの中で最期を迎えることでした。反乱を起こした首謀者たちの死罪は確定なのですが、立花宗茂は拘束された目の前の12人を前に言いました。
「そなたたちは、敵ながら見事な戦いぶりであった。よって、武士として最も名誉ある最期を与えることにした」
宗茂は広場に彼らを連れて行くと、全員の縄を解いて武器を与えました。そして一定の距離を空け、彼らの向かいには同じく武器を携えた12人の武士が立ちます。彼らは皆、立花家の家臣でした。
このとき事の顛末を見届けるため、豊臣家から“浅野長政”という武将が派遣されていたのですが、彼はその光景に目を丸くしました。
「なんだ、この裁きは?・・まさか!」
・・始めい!と“死合い”の合図が告げられると、12対12の死闘が開始。当然ですが、宗茂の家臣の方が斬られる場合もありました。
また、この形であれば首謀者側が勝利すれば、助命されるのかと言えばそうではなく、勝敗はどうあれ最終的には処刑。
広場は多数の武者たちが囲み、脱出は不可能となっていました。あくまで「最後に戦えたのだから、本望だろう?」と言うためだけに、ここまでやっているのです。
「きええぇぇぇーい!」「う、うああぁぁー!」
浅野長政は、目の前に広がる凄まじい光景に絶句して、思いました。
「こ、ここまでやるか立花宗茂。なんと凄まじい男よ!」
その後、この話を耳にした秀吉は、立花宗茂の武士としての絶対の覚悟と、豊臣家への忠誠心を褒め称えたといいます。実際にこの一帯では以後、豊臣政権への反抗がピタリと止みました。
もちろん天下人としての威光もあったでしょうが、反乱を起こせば立花宗茂が鎮圧しに来るという、恐怖感もあったことでしょう。
彼は西国無双と呼ばれたほど、けた違いの強さを誇った武将でしたが、そんな主従が今風に言えば“覚悟ガン決まり”で対峙してくるのです。
もし自分が戦国武将であれば、間違っても敵にしたくないと思えてしまいます。
③【尼子経久】神算鬼謀にすべてを捧げた将
数いる戦国大名の中でも、ずば抜けた計略の冴えで“謀聖”とも呼ばれたのが、尼子経久(あまご・つねひさ)という武将です。
彼は時代的には、かの織田信長が幼少の頃に活躍した人物ですが、もとは1地方の小勢力に過ぎない家柄で、大大名の人質といった立場でした。
それが謀略に次ぐ謀略で、“THE・下克上”と言える飛躍を成し遂げ、出雲の国(今でいう島根県)を中心に、自らが大大名へと成り上がったのです。
しかし、その晩年。家督を譲った孫が、毛利家を攻めて大敗すると、尼子家は存続の危機に陥ってしまいます。
当時、天下取りレースの筆頭候補とも言える“大内家”が毛利家も従え、尼子家を滅ぼすべく、押し寄せてきたのです。風は完全に大内軍に吹き、周辺の中小勢力は崩れを打って大内家に参陣しました。
そんな折り経久は、尼子家に味方する吉川(きっかわ)という大名を呼んで、言いました。
経久「良いか、お主も“もう尼子を見限った”と言って、大内軍へ加われ」
吉川「なるほど、大内へ潜り込む策ですな。では、そうして敵の内情を何もかも、経久殿へお伝えしましょう」
経久「何をバカな、そんなことをすれば敵に勘付かれるだろう?」
・・事実、大内家もとつぜん寝返った武将は警戒しますし、相手には智将で名高い毛利元就も参陣しているのです。
経久「お主は徹底して大内の武将になり切れ。戦いになれば、われらの兵を斬っても構わん!」
吉川「まさか。そのようなことは、さすがに!!」
経久「切っても構わん。敵を騙すとは、そこまですると言うことだ。お主は今“まさか”と思うたな?敵もそう思って、信用することだろう」
吉川「こ、このお方は・・鬼じゃ。」
その後、すぐ尼子経久は老衰で息を引き取りますが、あえて自らの死を広めるように、遺言を残していました。
“謀聖”の経久が死去したとあれば、大内や毛利にとっては大チャンス。強大な勢力をもとに「このまま京都へ上洛して天下を!」という勢いで、尼子の本拠地を総攻撃してきました。
しかし、土壇場で吉川軍が裏切り大敗。命からがらの撤退となり、旗色は完全に尼子家へ。大内が所有していた石見銀山をも奪うなど、一気に勢力を盛り返したのです。
尼子経久の策謀も、前述の島津や立花宗茂と同じく、ある意味で勝利への執念が並外れていたからこそ、実行できたと言えるでしょう。
かつて大河ドラマ「毛利元就」では、尼子経久の最期シーンで彼の妻が「自らの死さえ、策略に使うお方よ・・」と、切なく口にする表現が印象的でした。
強さと狂気は紙一重
・・以上、戦国時代に尋常ではない強さを誇った、3人の人物とエピソードをご紹介しました。いずれも共通するのは、常人が「そこまでやるか!」と思うレベルの覚悟や手段です。
これは、ある意味では時代を超えて共通することかもしれませんが、無数の競争の中、とび抜けた偉業を成すためには、大切な何かを捨て、突き進む必要に迫られるのかもしれません。
歴史を見わたせば偉業を成した人物は数多くいますが、それは単に才能が備わっていただけでなく、その裏には並々ならぬ覚悟や代償を捧げたのではと、想像することが出来ます。