Bリーグを創った男たち 今だから明かせる「改革」のポイント
二つのトップリーグが分立し、国際資格停止処分も受けた日本バスケがどう新リーグの設立に漕ぎつけたのか?改革に関わったメンバーの証言から激動の過程を振り返るとともに、スポーツ界全体へ波及する意義を考えた。
2季目も盛り上がるBリーグ
国際バスケットボール連盟(FIBA)の「飛車角」に相当する実務のキーパーソンが、スイス人のパトリック・バウマン事務総長とドイツ人のインゴ・ヴァイス財務部長だ。彼らはこの3月に来日し、日本バスケットボール協会(JBA)の会合にオブザーバーとして出席した。
日本バスケの改革が順調に進む様子を確認したバウマンは、このようなコメントを残した。「数年前まで誰も信じなかったと思うが、Bリーグは見事に成功している。三屋裕子JBA会長は現在FIBAのセントラルボード(中央理事会)のメンバーに入っているが、それは日本が変わってきたという我々の信頼の証だ」
三屋JBA会長(左)とバウマンFIBA事務総長(右)(撮影 大島和人)
彼の言葉どおり、Bリーグは開幕直後の勢いを維持し続けている。2017-18シーズンは昨季比+11%の観客増(B1・B2の合計/18年2月末時点)を記録し、右肩上がりの状態だ。
観客数1位の千葉ジェッツ(提供 B.LEAGUE)
4年前にそんな未来を誰が想像しただろう。JBAはFIBAの制裁(資格停止)処分を科せられ、男女あらゆる年代の代表チームが国際試合のできない状態に陥っていた。混乱の象徴がリーグの分立だった。さかのぼって2005年には、企業チーム中心のリーグと決別したbjリーグが、地域密着のプロリーグとして独立。大きく違うルール、運営の仕組みを採用し、JBAがコントロールできない存在となっていた。
バウマンは14年4月の来日時に「トップリーグの一元化」と「ガバナンス(組織統治)改善」をJBAに強く要求。実現しない場合は罰則を科す考えも示し、回答期限を10月末に設定した。
2014年にFIBAから制裁処分
制裁回避はあらゆるバスケ関係者にとっての至上命題だった。同年7月にはJBAと2つのリーグの関係者が参加した「新リーグ組織委員会」が発足する。琉球ゴールデンキングスの木村達郎社長は、同委員会のメンバーとして毎週のように上京し、会議に参加していた。企業チームの部長とも精力的にコミュニケーションを取っていたという木村は、「みんなが同じようなイメージを、時間をかけて持ち始めていたように思う」と当時を振り返る。
木村達郎社長(撮影 一原知之)
しかしJBAは信頼を取り戻すだけの結論、行動を示せなかった。10月23日には深津泰彦会長が辞任を発表。11月26日にはついにFIBAの制裁処分が下る。
制裁を受けてバウマンは改めて来日し、12月18日の記者会見に臨む。当時の彼は日本バスケの現状をこう厳しく批判していた。「協会のリーダーも次々に変わってしまい、(男子のトップリーグは)分裂した状況が続いている。将来を見通すビジョンのないまま今の状態に至った」
川淵が立て直しへ
FIBAはリオデジャネイロ五輪の予選開始が迫る中で、15年6月を再構築期間の区切りとした。彼らが「切り札」に選んだのは川淵三郎だった。彼は1993年に開幕したJリーグの初代チェアマンで、02年からは日本サッカー協会(JFA)の会長も務めていた。川淵は「ジャパン2024タスクフォース(特別プロジェクトチーム)」のチェアマンとして、リーダーシップを発揮することになる。
(撮影 山田高央)
ただし川淵の懐刀となる実務家の人選が難航した。川淵は当時を思い出してこう述べる。「片腕になる人を探して4、5人に当たったけれど、みんな僕から見れば、今この危機的状況での最適任者とは思えなかった。そのとき文部科学省から境田さんという提案があった。最初は話をしてダメだったらまた探さなければ仕方ないという感じだったけれど、今思えば彼がいたから成功できた」
境田正樹は弁護士で、スポーツ団体の実情をよく知るコンプライアンスの専門家だ。以前から文科省の案件に関わっていたものの、川淵との面識はなかった。また彼がタスクフォースのナンバー2として指名を受けたのは1月15日。準備時間が極端に少なく、バスケ界の知識もない状態から出発するという前提を考えても、かなりの「無茶振り」だった。
境田は振り返る。「お手伝いくらいの感じで考えていたのに、リーグ統一とガバナンス改革の膨大な難作業と向き合わなくてはならなくなった。しかも制裁を受けているから、JBAを使ってはいけない。情報も漏らしてはいけない」
境田正樹弁護士(撮影 一原知之)
作業の難易度に加えて量が問題だった。JBAと一線を引く必要があるため会場手配、金銭管理のような雑務まで境田の仕事となったからだ。
境田弁護士の“奇襲作戦”
両リーグの統合をはじめとする難題解決の猶予は半年足らず。そんな中で第1回タスクフォースが1月28日に開催されることになった。境田はそれに先んじてFIBAの意向をつかみ、方向性を探るべく思い切った行動に出る。
彼はバウマンやヴァイスが来日した25日の昼過ぎに、二人の宿泊先である東京都内のホテルへ単身乗り込んだ。FIBAとの関係が築けなければ、これからの作業は実るはずもない。境田は彼らの信頼を得られなければ自らは身を引き、別の人に任せた方がよいという覚悟も持っていた。しかしその心配は杞憂に終わり、名刺交換直後からいきなり、今後の具体策も含めた議論が始まる。夜にはタスクフォースでの境田の役割まで決まることとなった。
当時bjリーグには24チームが所属し、一方のNBLは13チーム、NBDLが10チーム。そんな両リーグの合流について、こんなやり取りがあったと境田は明かす。
「一番楽なのはbjリーグとNBLが『2年以内に統一します』といった協定書をかわす方法で、これなら移行期間もあるし、2人のトップから署名をもらえば済む。その間に交流戦や統一チャンピオンシップをやれば良いと思ったらはっきり拒否された。バウマンは強い口調で言いました。全47チームの社長からリーグ統一に賛成するとの署名をもらわなければ制裁解除は認めないと」
「bjリーグ」2015年の開幕写真(写真 中西祐介/アフロスポーツ)
そうなればクラブを説得するための、経営者へコンタクトする仕掛けが必要となる。境田は全47クラブと2つのリーグから直近3年分の財務諸表を提出させることを、第1回タスクフォースの決議事項とする提案を行った。
「バウマンもヴァイスも『それはグッドアイディアだ』と言ってくれた。弁護士なら守秘義務があって信頼もされると了承してくれた。これで僕は会社の財務内容を事前に把握したうえで、チームの社長に個別にヒアリングをする、言い換えれば彼らを1対1で説得をする機会が付与された」
25日の折衝は深夜まで7時間以上も続き、境田は「へとへとになって」帰路に就いたという。ただ第1回タスクフォースに向けた下準備は大きく進んだ。
急速に進んだリーグ統合
28日の会議は川淵と境田のコンビが議論を引っ張り、2時間ほどでスムーズに終了した。そして2月に入るとリーグの統合は急速に進展していく。
境田は振り返る。「2月4日にbjリーグの代表者会議がありました。僕が『3年分の財務資料を私のところに出し、ヒアリングを受けてほしい』というお願い文書を持ってそこに行ったんです。その日はたまたま議題が多く、会議が4時間ほど続いた。休憩時に全クラブの社長と名刺交換ができて、フランクに話せる関係になった。集客力のあるクラブは割と前向きで、早く勝負をつけた方がいいと思った」
一般的に想定されていた新リーグ構想はbjリーグ(株式会社日本プロバスケットボールリーグ)とNBLの「合併」だったが、境田は違う手法を想起する。彼は両リーグの規約を調べ、「前年の6月までにクラブが通告すれば、その次のシーズンは退会できる」というルールを確認。各クラブがリーグへの脱退届を提出して「けじめ」をつけた上で、bjリーグでもNBLでもない「第3の」新リーグに申し込む素案を考えた。
新しい“船”を作り、そこに各チームが乗り移るという発想だ。bjリーグの運営法人との合併を巡る調整は、債務問題などから難航が予想されていた。そこを省略できれば、他の難問に時間を割くことができる。川淵はそれに同意した上で、さらに深く方向性を練った。
境田、川淵が一世一代の勝負だったと明かすのは2月12日。東京・浜松町でbjリーグ、NBLの代表者会議が組まれており、二人はそこに乗り込んだ。川淵はまずbj側のクラブとリーグの代表者を前に、強烈な私案をいきなり提示した。
NBL側との会合(写真 田村翔/アフロスポーツ)
川淵が全面公開を指示
当初は会議の冒頭のみが公開される予定だったため、タスクフォースチームのスタッフは撮影中のメディアに対して部屋から出るように促した。これを見た川淵はスタッフを強く叱責し、全面公開を指示する。
川淵は「マスコミの皆さんは俺の悪口を書くのが好きだから。それが宣伝になるんだよ」と打ち明ける。彼は反発、会合の紛糾も含めてすべてを晒す覚悟を決めただけでなく、バトルが報道されればむしろバスケ界の宣伝になるという効果まで計算していた。
カメラが居並ぶ前で、川淵は新リーグ構想を熱く説いた。「15年4月末までの現所属リーグに対する脱退届提出」「サラリーキャップ(年俸総額規制)廃止」といった要点が列挙されていく。
クラブの総脱退はbjリーグの運営法人にとって、クラブという「乗客」を失う最悪の事態だった。しかしそれも承知の上で、川淵には勝算があった。「トップが変わるときは最初が大事なんだ。初めにガツンとやらないと組織は上手く行かない」
川淵は1部参入の条件として、下記の2点を強調した。
「ホームアリーナで8割以上の試合を開催する」
「5000人収容のアリーナを用意する」
最少でも3つ、通常5つ、6つの体育館を転戦して試合を消化していたbjリーグの各クラブにとっては、不可能とも思える条件だった。川淵も「みんな『ホームアリーナで8割の試合をするなんて馬鹿をぬかすな』と思っていたね」とそれを認める。しかしそういった反論も計算内のことだった。
「全て読み筋だった。みんな体育館の使用許可をする人のところにしか行っていないから。『市長のところ行っているのか?知事のところ行っているのか?』と聞いたら誰も行ってない。『そこがOKと言えば8割貸してくれる。それをやってから文句を言え』ということだね」
実際に行政を動かした経験を持つ川淵が、処理できないほどの反論は出なかった。既に78歳を迎えていた彼がクラブ経営者を圧倒したまま、勝負の会議は終了する。
(写真 田村翔/アフロスポーツ)
空気が変わり、方向性も定まり、徐々に細部が詰められていく。3月4日の第2回タスクフォースでは、より詳細な参入条件が提示され、1部参入の目安として「年間収入2億5千万円以上」のハードルも設定された。
各クラブのスポンサーも、改革の行方を見守っていた。将来への不安が消えたことで、クラブを1部に入れよう、飛躍させようと支援が増えていく。境田は振り返る。「2億5千万円を条件にしたら、クラブにお金が集まった。川淵さんがいると凄いことになるというイメージが、みんなの中にもかなり湧いてきた」
難関だった企業の説得
もう一つの難関が企業の説得だった。各社のトップが首を縦に振らなければプロ化は実現しない。トヨタ自動車や日立製作所はJクラブの責任企業でもあるが、赤字や株主代表訴訟といったリスクを警戒していた。しかしそういった説得も、川淵がJリーグ発足時に経験していたプロセスだった。
ただ川淵は妥協も考えていた。「企業名は残していいという判断を僕は下した。それはJリーグを創るときと根本的に違うところだけど、『そうしたって大丈夫』と自信があった。多少企業スポーツに寄っても、バスケそのものは発展していくという思いだった」
一方でこのような腹案を用意していた。「企業名をつけるチームは、3千万円を(リーグに)出してくださいと非公式に言っていた。あのとき(企業チームが)5つあったから、合計1億5千万円が予算に入る。それで“よし”にするかと思っていた」
この提案は「嬉しい逆効果」を呼んだ。「ある日(トヨタ自動車社長の)豊田章男さんが、『企業名を出すな』と言っていると聞いてね。バスケのプロ化を成功させようと思って頂いている気概が伝わってきた」
豊田章男社長(右)(写真 つのだよしお/アフロスポーツ)
結果として大企業のプライドを尊重したアプローチが奏功する。トヨタ自動車(現アルバルク東京)に続いて、三菱電機(現名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)、アイシン精機(現シーホース三河)も「企業名外し」に同調した。ただし川淵はこう強調する。
「初めに『外せ』と言ったら、トップが『外す』と簡単に言ったかどうか。(プロリーグへの参加を)辞めると言った方の可能性の方が高いと思うよ」
企業チームも新リーグに
bjリーグ勢も含めて新リーグへの参加を拒否するクラブは一つも出なかった。最後はプロ化にもっとも消極的だった東芝(現川崎ブレイブサンダース)も追随し、企業形態の5チームは一つも欠けずに新リーグに合流する。
レバンガ北海道の現役選手で、11年からは経営者も務める折茂武彦は、改革の行方に対して懐疑的だったという。「僕はそんな簡単なものじゃないとずっと見ていました。でも速かったじゃないですか。手腕がもうすごいなって。ぶっ壊す人はぶっ壊すんだって……。バスケ界の人じゃないから良かったんだと思いました」
折茂武彦選手兼社長(提供 B.LEAGUE)
4月1日には川淵と境田を理事として「一般社団法人ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(略称JPBL)」が登記される。これが16年3月にそのまま公益社団法人化されて、Bリーグの運営主体となった。
ただしJBAのガバナンス改革という重要課題がまだ残っていた。その複雑で非効率な運営こそが、2リーグ分立の背景にあることをFIBAは見抜いていた。FIBAが1月の段階で要求していた内容を境田はこう説明する。
「理事の総数を7人以下にする、事務総長を作ってそこに権限を集約するという話でした。理事を外部の人に刷新するため、27名の理事と70名近い評議員全員に辞表を出してもらわなければならない。それはあなたの仕事だということでした」
3月15日に行われたJBAの「ガバナンスに関する勉強会」で理事、評議員の辞任に向けた説得がまず行われた。バスケ界に様々な問題があったにせよ、役員たちは都道府県協会、学生の連盟などで長く競技を支えてきた功労者。もちろん全員がすんなりと首を縦に振ったわけではなく、境田は「10人くらいが嫌だと言っていた」と明かす。
川淵は苦笑しながら「境田さんがいなかったら難しかったかもしれないね。僕がやったら大喧嘩になるから」と振り返る。しかし最後は境田が手間をかけて説得し、4月29日のJBA臨時評議員会をもってこの作業も完了した。第5回と第6回のタスクフォースは残っていたが、改革の成功とJBAの制裁処分解除は実質的にここで決した。5月には川淵がJBA会長に就任した。
大河がバスケ界に
方向性が定まったといってもまだ作業は大量に残っていた。常任の幹部として、それを具体化するリーダーが必要だった。
「川淵さんが改革の件で色々とご苦労をされているのは分かっていました。そんなときに話があり、困っておられるということで、何かのご縁だなと思いました」
そう振り返るのが大河正明・現Bリーグチェアマンだ。大河はバスケ経験者だが、Jリーグの常務理事を務め、クラブライセンス制度の導入など規約の整備に手腕を振るっていた。彼が3人目の新リーグ理事となり、JBAの事務総長にも就任。両組織の実務を切り盛りする立場となる。
大河は「新リーグの会長も川淵さんがなるのかなと最初は思っていた」と振り返るが、川淵はこれを固辞。15年9月に大河が新リーグのトップへ就任した。
大河正明・現Bリーグチェアマン(撮影 山田高央)
大河はゼロから人材確保や組織作りを進めていく。1部から3部への振り分けは当然ながらシビアな作業だった。彼はリーグのスポンサー探しや、放映権などの動きを急ピッチに進め、16年9月の新リーグ(Bリーグ)開幕に突き進んでいく。
JBAは新リーグが開幕する直前の16年6月に「平時体制」に戻った。川淵は会長を降り、エグゼクティブアドバイザーに就く。新会長には元バレーボール日本代表で、上場企業の社長経験も持つ三屋裕子が就任する。またJFA時代に川淵を支えた田中道博が事務総長となったことで、大河はBリーグにはっきりと軸足を移した。
改革の本質と価値
JBAがかつて抱えていた体質は「バスケだけの問題」でない。それは話を聞いた5人が揃って口にする認識だった。日本の競技団体は多くがムラ社会的な閉鎖性を持っている。川淵も「どこがどうとは言わないけれど、日本の競技団体はひどい」と顔をしかめる。バスケ界では二リーグ分立、制裁処分という分かりやすい形で問題が浮上した。ただし本当の問題はその状況を生んだ土壌、構造にあった。
川淵はJFA会長時代にも都道府県協会の法人化、給与体系、人事などのガバナンス改革に手腕を振るっている。琉球社長の木村が「Jリーグの立ち上げも大きいですけど、僕が凄いと思うのはやっぱりサッカー協会の大改革をされたこと」と評する先進事例だった。
川淵は元日本代表選手で代表監督を務めた経験も持つサッカー人だが、JFAの改革では古河電工社員としての経験を生かした。川淵も「分析方法、定量的把握といったサラリーマン教育を受けていた。それが力になった」と口にする。
(撮影 山田高央)
彼はこう強調する。「その競技のOBが一番上手くガバナンスをできるかといったらそれは大間違い。きちんとしたノウハウ、プランを持っている人がその競技を導ける。進むべき道をちゃんと示すのはトップ。Bリーグのスタートはそれを見せたからみんなが来た」
Bリーグの立ち上げ、日本バスケの改革にはある程度の幸運も味方していたのだろう。しかしその川淵と境田が行った交渉や制度設計の手際には、幸運で片づけられないノウハウが詰まっている。外部の専門家が手際よく「破壊」「設計」「建設」を進めたからこそ、バスケ界は試練を克服し得た。そのプロセスは2020年とその先に向けて、日本のスポーツ界にとって最高の手本となるものだ。
(写真 アフロスポーツ)
●Bリーグ開幕までの経過
14年10月23日:深津泰彦JBA会長が辞任
14年11月26日:FIBAのJBA資格停止処分が発動
14年12月18日:東京都内でバウマンFIBA事務総長が会見
15年1月28日:第1回タスクフォース
15年3月4日:第2回タスクフォース
15年3月15日: JBA評議員、理事らが参加する「ガバナンスに関する勉強会」を実施
15年3月25日:第3回タスクフォース
15年4月1日: ジャパン・プロフェッショナル・バスケットボールリーグ(JPBL)発足
15年4月28日:第4回タスクフォース
15年4月29日:JBA臨時評議員会
15年5月13日:第5回タスクフォース/川淵三郎がJBA会長に就任
15年6月2日:第6回タスクフォース
15年6月19日:FIBAの資格停止処分が解除
15年8月29日:1部から3部への階層分けを最終発表
15年9月15日:「Bリーグ」の愛称とロゴを発表
16年9月22日:Bリーグ開幕
(文中敬称略)
【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを一部負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】