イラク:喉元過ぎれば熱さを忘れる
2023年の夏は、本邦でも多くの地域が天災級の熱波に見舞われ、水の需給や農作物の生産に大きな影響が出た。一方、過去にも何度か記事にしてきたとおり、イラク、特にその南部の諸県では地域の存亡にもかかわる水不足が過去何年も続いている。中でも最も深刻な状態にある地域の一つとして常に挙げられているのが、ムサンナー県だ。ムサンナー県と言えば、本邦では「とある事情」により最もよく知られているイラクの県のはずだ。県の名前でピンと来なくても、同県の県庁所在地がサマーワ市だと聞けば、より大勢の人がそれがなんだか気付くはずだ。技術的な理由により、本来のアラビア語の名称の長母音を省いた「ムサンナ県」、「サマワ市」と呼んでいた報道機関も多かったことから、こちらの名称の方が通りがいいかもしれない。
「とある事情」が生起していた当時(2003年12月~2009年2月)、ムサンナー県なりサマーワ市なりについて見聞きしない日はないくらいだったが、現在この地域のことを気にかけている本邦の報道機関、記者、知識人はどのくらいだろうか?問題の地域は、「とある事情」の後も相変わらずイラクで最も貧しい県の一つだ。イラクの計画省によると、同国で字が読めない人の割合は12.3%だが、ムサンナー県はイラク国内で最悪の約20%だ。ムサンナー県の水不足について報じた2023年10月4日付『クドゥス・アラビー』紙(ロンドンで刊行。在外パレスチナ人が経営する汎アラブ紙)によると、同県の人口の50%~75%が農業を主な収入源としているが、水不足による農業不振により、人口の25%が貧困ライン以下の生活水準だそうだ。
水不足と農業不振は、経済問題であるとともに、ムサンナー県の住民が水資源や生活水準という観点でたいして恵まれているわけではない近隣の諸県への移住を余儀なくされるという、人道上の問題でもある。しかも、水不足の原因、或いは結果として、有力部族が違法なやり方で可能な限り水資源の確保を図っているなど、社会の安寧を脅かす状況が懸念を呼んでいる。また、ムサンナー県から見ると川上にある諸県(上記の記事中ではバービル県、ディーワーニーヤ県)で割当量を上回る取水をしていることも、ムサンナー県の状況が悪化する要因の一つらしい。イラク政府は、水不足対策として送水パイプラインの敷設を行っているが、こちらはパイプラインがあっても肝心の水がないとのことで、地元の評判は良くないようだ。最も重要な対策は、上記のとおり諸部族や上流諸県による越権行為(=水の取り過ぎ)を何とかすることだが、貧しく、産業も人口も乏しいムサンナー県が有利になるような対策が講じられる可能性は高くなさそうだ。
「とある事情」の当時、本邦からムサンナー県に赴いて仕事をした人員はとても大勢だ。彼らの仕事ぶりを見物したり、何か不祥事がないかを待ったりして現地入りした人たちも多い。また、ムサンナー県からは地方自治体の高官や議員、部族の有力者、高度な治療が必要な患者らが大勢本邦に招待された。そのような意味で、現在も本邦でムサンナー県の住民と交流したり、同県で何かの事業を行っていたりする個人や団体はそれなりにありそうなものだが、現在のムサンナー県の窮状について日本で情報が発信されることはまずない。ムサンナー県では「とある事情」に関与することで、地元に経済的な資源や機会が充足する発展を夢見て過剰な期待を寄せる人々も多かったようだし、「とある事情」の当事者を(アメリカが率いる)「占領軍の一派」とみなす攻撃やサボタージュの扇動に悩まされた関係者も少なくなかっただろう。ともかく、ムサンナー県は本邦にとっていろんな意味で縁の薄い所では決してないのだ。ムサンナー県を夢の国に開発することは「とある事情」の目的ではなかったので、これに直接従事した人々は現在のムサンナー県の窮状に責任を負うわけではない。しかし、「とある事情」が解消した後、本邦にはムサンナー県のことを気にする者がほぼいなくなってしまったことは、なんだか悲しいことだ。「とある事情」は21世紀の本邦の外交・安全保障で歴史の転換点となった事業の一つなので、ムサンナー県やサマーワ市のことを「知らない」、「関心がない」となると社会人としての資質が問われると思う。その一方で、「とある事情」を報道や政争のネタとして転がした挙句、用事が済んだら地元の当事者のことなんてきれいさっぱり忘れてしまうとなると、人倫にもとるのではないだろうか。