【戦国こぼれ話】戦国時代に日本にやって来た宣教師のフロイスが大嫌いだった人々
学校や職場で人の好き嫌いが発端となり、イジメやパワハラが起こることは残念なことだ。しかし、人の好き嫌いは昔からあり、それは宣教師のフロイスも同じだった。フロイスは、どんな人が嫌いだったのだろうか。
フロイスはキリスト教に理解を示す武将には高い評価を与えたが、逆に信仰を妨げる武将には厳しい評価を下した。フロイスはキリスト教の布教のために日本に来たのだから、当然だったかもしれない。
毛利元就が本拠とした安芸国は、浄土真宗の信仰が根付いていた(安芸門徒)。むろん、元就も熱心に浄土真宗を信仰していた。
一方、大内氏の領国・周防ではキリスト教の信仰が認められていたが、大内氏の滅亡後、周防・長門は元就が支配することになった。元就の意向もあり、周防・長門におけるキリスト教の布教は難しくなったので、フロイスは元就を「悪魔」と称して論難した。
天正2年(1574)、長宗我部元親は土佐一国の支配を果たし、それまで土佐国内に強い影響力を持った一条兼定を豊後国へ追放した。翌年、大友氏の庇護下にあった一条兼定はキリスト教に入信し、ドン・パウロという洗礼名を与えられた。兼定に強い影響を与えたのは、イエズス会の日本布教長・カブラルであったといわれている。
フロイスによると、キリシタンとなった兼定は娘を入信させた。兼定は土佐一国を再び手に入れた暁には、土佐をキリシタンの基盤とするという強い決意を有していたという。
しかし、天正3年(1575)に大友氏の援軍とともに土佐に出陣した兼定は、四万十川の戦いで元親に無残な敗北を喫した。同時に、フロイスが描いた夢も潰え、元親はキリスト教の布教を阻む存在となった。そういう事情から、元親はキリスト教を弾圧するとして酷評されたのだ。
武田信玄は、仏教に帰依していた。元亀2年(1571)に織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした際、甲斐へ逃れた覚恕法親王を庇護下に置いた。覚恕は信玄に仏法の再興を託し、翌年に権僧正の位を授けた。
実のところ、信玄は不動明王などの神仏を信仰し、日本古来の宗教に傾倒していた。フロイスの言葉を借りれば、1日に3回は偶像を拝むほど、信玄は熱心に信仰していたという。
信玄が熱心に神仏を信仰した理由は、隣接する諸国を奪うことを祈念するためだった。一神教であるキリスト教は偶像崇拝を認めず、何より信玄はキリシタンになる余地がなかった。そのような状況から、信玄はフロイスにとって好ましくない人物に映ったと考えられる。
大和の大名・松永久秀は、法華宗に帰依していた。永禄8年(1565)、三好三人衆らに襲撃されて足利義輝が横死すると、久秀は法華宗の僧侶から多額の金銭を送られ、京都から宣教師を追放した。法華宗はキリスト教だけでなく、仏教の他宗派すら嫌っていたからだ。久秀がキリスト教を嫌っていたか否かは、判断が分かれるところである。
フロイスは久秀を評して、狡猾ではあるが博識であるとし、支配者としての才覚を評価している。永禄4年(1561)段階において、フロイスは久秀を五畿内における最高権力者と認識し、天下を掌中に収めたとも述べている。
フロイスから見れば、久秀はもっとも過激な仏教の宗派・法華宗を信仰していたので不満な点があったかもしれないが、久秀が畿内で強い権力を持っていたので従ったと考えられる。
朝山日乗は天台宗の僧侶であり、キリスト教に強い嫌悪感を抱いていた。永禄12年(1569)、日乗は朝廷に申請し、宣教師を京都から追放する旨の綸旨を得た。日乗は綸旨を携え、将軍・足利義昭のもとを訪れ、宣教師の追放を求めた。
しかし、義昭は宣教師の扱いについては、天皇ではなく将軍に権限があるとして拒否した。次に、日乗は岐阜の織田信長のもとを訪れ、同じことを求めたが、信長は宣教師の保護を進めていた。
本懐を遂げられなかった日乗は朝廷と結託し、何とか宣教師を追放するよう画策した。こうした動きを見たフロイスは、日乗をキリスト教布教の敵とみなし、徹底して罵倒し続けたのである。
肥前の大名・龍造寺隆信は、キリシタンを磔にして惨殺した。隆信の三男・後藤家信がキリスト教に入信しようとすると、猛烈に反対し翻意させたといわれている。フロイスによると、隆信は6人担ぎの駕籠が必要なほどの巨漢だったが、迅速な決断力があったと評価している。
天正12年(1584)の肥前における沖田畷の戦い(龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久連合軍の合戦)で、イエズス会はキリシタンの有馬晴信を支援した。
敵対する隆信の軍備について、フロイスはカエサル(古代ローマ期の政治家、軍人)でも成しえないほどだったと賛辞を贈った。隆信のことは嫌だったかもしれないが、敵ながらあっぱれと思ったのだろう。
しょせんはフロイスも人間である。キリスト教布教という自身の仕事に手を差し伸べる武将には最大の賛辞を贈ったが、そうでなければ酷評と罵倒の嵐だったのだ。