織田信長の家臣は、なぜ信長を恐れたのか。その理由を考える。
会社などによっては、社訓なるものがあり、毎朝の始業時に唱和することもあるだろう。織田信長の場合、社訓に該当するのが「越前国掟」で家臣が震え上がったというが、どういう内容のものだったのだろうか。
天正元年(1573)8月、織田信長は越前朝倉氏を滅ぼし、朝倉氏旧臣の前波(桂田)吉継に越前支配を任せた。翌年、吉継は富田長繁に敗れて討ち死にし、長繁は2年後の越前一向一揆との戦いに敗れて戦死した。
天正3年(1575)8月、信長は越前一向一揆を滅ぼし、柴田勝家に越前8郡の支配を任せた。残る2郡は、不破光治・佐々成政・前田利家(府中三人衆)に与えられ、勝家の目付を命じたのである。
同年9月、信長は「越前国掟」を定めた。それは全部で9ヵ条にわたり、越前支配の基本方針を示したものである。以下、概要を取り上げることにしよう。
信長は国中に非分な課役を課すことを禁止し、臨時に課すときはあらかじめ報告するよう求めた。また、裁判を公平に行い、双方が納得しない場合は、信長の判断を求めるよう促した。
支配に際しては「武篇」が重要であり、武具・兵糧を貯え、長く支配できる体制を求めた。また、寵童・猿楽・遊興・見物を禁止した。さらに、忠義の者に恩賞を与えるため、給人のいない領知を設けさせた。
もっとも注目すべきは、最後の第9条である。支配に際して新たなことが生じても、信長の指示に従うことを厳命した。ただし、それが無理であれば従う必要はなく、申し出たら聞き届けるとする。
そして、とにもかくにも信長を崇敬し、信長のいる方向に足を向けないように命じた。そうすれば侍の冥加(幸福)であり、その身が長く続くであろうとし、よく考えるようにと伝えたのである。
端的に言えば、「越前国掟」とは、信長に対する絶対的な忠誠を誓わせるものだった。勝家は越前の支配を任されていたが、それは全面的に任されたのではなく、大きな制約があったのである。
「越前国掟」は原本が残っておらず、伝わっているのは写しである。近年、「越前国掟」は信憑性があるものと評価されている。勝家以外の家臣についても、信長から同じような命が下された可能性がある。