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関ヶ原合戦で敗れ、改易・減封で地獄の苦しみを味わった3人の戦国大名

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
宇喜多秀家と豪姫の像(東京都八丈町)(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では先のことになるが、慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦では、改易・減封となった西軍の戦国大名がいた。うち、地獄の苦しみを味わった3人を紹介することにしよう。

1.上杉景勝(1556~1623)

 徳川家康は景勝が上洛要請に応じなかったので、会津征討を敢行した。しかし、大坂で石田三成、毛利輝元ら西軍が挙兵したので、家康は西上の途についた。その後、景勝は東軍の伊達政宗、最上義光と戦ったが、西軍の敗報を聞いて兵を引き上げたのである。

 翌慶長6年(1601)、景勝は西笑承兌を介し、上洛して家康に詫びを入れることにした。これにより景勝は家康から許しを得たが、処遇は決まらなかった。同年8月、景勝は会津(約120万石)から米沢(約20万石)に減封となった。上杉氏は幕末まで続くが、たびたび財政難に悩まされたのである。

2.毛利輝元(1553~1625)

 輝元は西軍の将として大坂城に入城し、西軍を支えることになった。しかし、合戦の前日、配下の吉川広家の懇請を受け入れて西軍を裏切り、東軍に与することになった。起請文を交わした際、輝元は家康から本領の安堵を認められたという。ところが、そんなに甘くはなかった。

 戦後、家康は輝元が西軍の将として積極的に関わっていたこと、伊予、阿波に侵攻していたことを厳しく指弾した。その結果、輝元は安芸などの本領(約120万石)をいったん返上したうえで、周防・長門(約30万石)に減封された。同時に輝元は出家して、家督を譲ったのである。

3.宇喜多秀家(1572~1655)

 秀家は大将格として、関ヶ原本戦に出陣した。しかし、宇喜多家は同年の宇喜多騒動で弱体が進み、多くの家臣が出奔した。それゆえ関ヶ原に出陣した秀家は、牢人衆で不足した軍勢を補う始末だった。そうしたことが災いしたのか、秀家は大敗して戦場から離脱したのである。

 戦後、秀家は島津氏を頼って、薩摩へと逃れた。秀家が領していた備前・美作などは取り上げられ、改易となった。のちに、秀家は家康のもとに出頭し、八丈島への流罪となった。結局、秀家は故郷へ帰りたいと思いながらも果たせず、異郷の八丈島で生涯を閉じたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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