夏の甲子園1日遅れで開幕! 初日の第3試合 佐賀対山梨で思い出した伝説の試合とは?
台風の襲来で、夏の甲子園は1日遅れの開幕となった。一般のファンは入場できず寂しい限りだが、大会そのものがなかった昨年のことを考えると、一歩前進とは言える。コロナ禍の大会が無事に完走できることを切に願う。
甲子園は都道府県の対抗戦
3日に抽選が終わっていて、3回戦までの組み合わせは決まっている。皆さんの地元、故郷の代表はどの学校との対戦?「そういえば、この県とこの県はよく当たるなあ!」などと思いを巡らせることはあるだろうか。もちろん名門校同士、強豪対決などに注目は集まるが、甲子園の高校野球は都道府県の対抗戦でもある。初日のカードを眺めるだけで、昔の思い出がいくつもよみがえってくる。
佐賀と山梨の伝説の試合
開幕試合の日大山形は、筆者が高3だった昭和54(1979)年も開幕戦に登場して、新居浜商(愛媛)に快勝した。当時はグレーのユニフォームで、胸の文字は漢字だった。第3試合は、東明館(佐賀)と日本航空(山梨)の対戦。佐賀と山梨の対戦で真っ先に思い浮かんだ伝説の試合がある。(学年は当時。敬称略)
剛腕・江口擁する佐賀工と優勝候補の東海大甲府
昭和62(1987)年8月13日。佐賀工と東海大甲府が初戦(2回戦)で激突した。佐賀工はその夏、19年ぶりの出場で、大会ナンバーワンと言われた剛球投手の江口孝義(3年=元ダイエー)を擁していた。対する東海大甲府は、当時が同校にとっての全盛期。久慈照嘉(3年=現阪神コーチ)が4番を打ち、センバツでは優勝したPL学園(大阪)と延長の死闘を演じるなど4強に入っていた。チーム力では、優勝候補にも挙げられる東海大甲府が断然、上回る。大会ナンバーワン投手がこの大敵を抑えられるか。試合の焦点は、はっきりしていた。
本盗決勝点を江口が守り抜く
試合は序盤に1点ずつ取り合って、江口と東海大甲府の山本信幸(3年)の投げ合いとなった。8回裏に佐賀工が1死2、3塁の好機を迎えるもスクイズを失敗。これで無得点かと思われたが、直後に意表を突く本盗が間一髪で決まった。投球がワンバウンドでなければ、アウトだっただろう。走者の野田和樹(3年)は、チーム一の俊足だったそうだ。江口はこの1点を守り抜き、強豪を4安打9三振。2-1で佐賀工に19年ぶりの勝利をもたらしたのだった。剛腕が優勝候補をねじ伏せた。それも決勝点が本盗という鮮やかさ。伝説の一戦と呼ぶにふさわしい、強烈なインパクトを残した。
先頭打者が「全然、見えねぇ」
江口については後年、久慈コーチに聞いたことがある。当時、山梨には甲府工に中込伸(元阪神)がいて、中込は全国屈指の右腕と評判だった。実際、東海大甲府とともにアベック出場したセンバツでは、8強まで進んでいる。「ウチは中込を打っているんで、まあ、中込ぐらいじゃないかと思っていた。ところが、先頭打者が三振して帰ってくると『ダメだ。全然、見えねぇ』と言っていたんで、これは手強いなと。とにかく低めの伸びがすごかった」と述懐してくれた。江口はこの試合、大会で最速の148キロをマークした。
次戦は別人のように打たれる
8強入りを懸けた習志野(千葉)との3回戦は別人のような投球で、序盤から打たれあっさり降板。試合も4-12で大敗した。当日、インタビュー通路で泣き崩れる江口を目の当たりにしたが、強敵を倒した達成感があったのだろうと思った。しかし、のちに、意外な事実が判明する。初戦に勝って浮かれすぎた選手たちが宿舎で騒ぎ、監督からきついお灸をすえられて、戦意を喪失したまま試合に臨んでいたことがわかったのだ。
印象に残った控え投手の言葉
この事実は、数か月経ってからわかったことで、初戦との落差を考えれば合点がいく。江口は社会人を経て地元のダイエー(現ソフトバンク)に入団するが、社会人時代から肩痛に悩まされ、未勝利のまま引退することになる。甲子園で見せた輝きを最後まで取り戻すことはなかった。大敗した習志野戦では、控え投手の和田祥治(3年)に目を奪われた。江口の陰に隠れて地方大会でもほとんど出番はなかったが、思わぬ形で巡ってきた大舞台のマウンド。緩い球をうまく使って、終盤の3回をピシャリと抑えた。「江口に連れてきてもらった甲子園。僕は3年間で最高の投球ができた」。これが高校野球。これが甲子園だ。今夏はどんなドラマが、伝説が生まれるのだろう。