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樋口尚文の千夜千本 第28夜「ソレダケ」(石井岳龍監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。

高潔なるロックへの倫理に感電する

「石井岳龍」という名前には依然としてなじめなくて、わが世代はいつまでたっても「石井聰互」にこだわってしまう。それは変わりゆく作家にとって迷惑なのか歓迎さるべきことなのか判らないが、さて実際「岳龍」と「聰互」の位置関係とはどんなものだろうか。新作『ソレダケ』に事寄せてそんな事を考えてみたくなったが、その前に今の若い映画ファンはもはや知る由もないであろうわが世代の「聰互」体験をフラッシュバックさせると・・・

私はもうかれこれ四十年近く前に作られた8ミリの『高校大パニック』を、上板橋の上板東映という奇特にも自主映画を大支援していた名画座の上映で目撃して驚き(掌サイズのデジタルHDカメラで撮った映像が気軽に映画館で上映される今どきとは違って、当時は8ミリ映画が、名画座とはいえ劇場のスクリーンに掛かるということは”事件”であった)、『1/880000の孤独』や『シャッフル』のような自主映画を「ぴあ」主催の「ぴあシネマブティック(=PCB)」のサイエンスホールまで追いかけ、ロマンポルノ期の日活が8ミリの『高校大パニック』に注目してこれをまさかの35ミリの劇場用映画としてリメイク、藤田敏八監督の『帰らざる日々』とお盆興行で二本立て公開する(しかも日活ニューアクションの澤田幸弘監督と共同でまだ日大芸術学部の学生だった石井監督が監督をつとめる!)というニュースに腰を抜かしてついに撮影現場に参加し、さらにPFFの前身・ぴあ自主制作映画展の旧文芸坐でのオールナイトで『突撃!博多愚連隊』を観て「これは8ミリなのか?!」と唸り、卒業制作で作られた『狂い咲きサンダーロード』が東映に買われて鈴木則文監督の旧作『聖獣学園』とアクション&エロスの二本立てで公開されると聞いては今はなき新宿東映ホール(ヒナ壇傾斜がキツかった!)に馳せ参じ、そのヒットで作られた『爆裂都市 BURST CITY』のロッカー大集合の布陣に心躍り・・・と、それはもう当時の映画小僧にとって「石井聰互」は、いちいちの映画の出来がどうこうとか言うのはもはや問題ではなくて、とにかく映画の存在自体が”事件”であり、今では想像がつかないくらいかけ離れていた劇場のスクリーンと8ミリ16ミリの自主映画との間の距離をぶっ壊そうとしてくれているヒーローだった。

そういう意味で当時の日本映画シーンにあって石井映画はまさに”ライヴ”だった。といっても別にパンクロックのライヴシーンが出て来るからではない。その時点での日本映画の状況とどう切り結ぶかという、その時の立ち位置、向き合い方こそがいちばん石井映画のわくわくするところであったということだ。今にして思えば、1970年代半ばから後半の邦画のプログラムピクチャー興行が行き詰った時期にあって、企業の側もこれはどうにかしないとまずいと焦って元個人映画の鬼才でCM界の寵児となっていた大林宣彦監督や自主映画経験しかない大森一樹監督が一斉に東宝や松竹の封切作品を任され始めた空気感のなかで、石井監督と石井作品にもスポットが当てられたわけである。映画会社の側も、若い未知なる作り手たちも、それぞれに「壊さなきゃ」と思っていた気分が共振して、何やら既成の枠組みがグラッと来そうな予感のした、束の間の面白い季節だったかもしれない。

しかし、バブル期から現在に至る映画制作のスタイルは極めて大くくりに言うと、いくつもの企業が寄合でリスクを排除し、中途半端なサイズのブロックバスター(ふう)娯楽映画を生み出す方向で収束していった(そして近年はその回路からこぼれ落ちた界隈で小品以下のサイズの群小デジタル作品が名ばかり映画と謳われつつうたかたのように公開され忘却されてしまう)ように思う。この90年代から今までの状況のなかで、いずれにも属さない中小規模のサイズではっちゃけた映画づくりを試行する石井ワールドはずっと居心地悪そうに見えた。また、80年代以降のそこそこの豊かさの中でほどよさや脱力が好まれる時代にあって、主題やモチーフからして初期石井作品のようなロック映画は季節はずれに感じられるようなところにさしかかり、時代と自らの接点を探り続けてきた石井聰互はおのずから『エンジェル・ダスト』『水の中の八月』『ユメノ銀河』のような静謐な思索の世界にシフトし、その方面での白眉と言える近作『シャニダールの華』につながってゆく。

そんな長い思索の季節にあって「石井聰互」はいつしか「石井岳龍」に変わっていた。作家の変節と成長も近作の誠実さもをまるで否定するものではない私としても、やはりくだんのような静謐な作品群にあって「本当にこれらは石井岳龍が死ぬほど撮りたい映画なのか?!」と思うことしばしばだった。だが、さらに時代は巡って極限的な貧しさへの苛立ちは改めて大いなる映画の主題として浮上し、中途半端なブロックバスター(ふう)映画と群小デジタル作品のそれぞれの限界に辟易してきた観客たちもさすがにもっとしっかりした構えの、でも思いきり好き放題のやんちゃをやっている面白い映画はないものかと待望している感じがする。おそらく(さまざまな偶然の行きがかりも含めて)そういう自らの内外のけはいが像を結んだところに、「石井岳龍」は改めて「石井聰互」として撃つ用意ありと立ち上がったのではなかろうか。

そんな『ソレダケ』にあって、「石井岳龍」は静謐さの皮膜の裏であたためていた「聰互」のジェネレーターを存分に熱く駆動させることになったわけだが、物語はごくごくシンプルである。社会の底辺でもがく主人公・大黒(染谷将太)は調達屋の恵比寿(渋川清彦)から金品を窃盗するつもりが期せずして裏社会の人身ビジネスにとって重要な情報満載のハードディスクを入手してしまう。このことで激しく追われる身となった大黒が、風俗嬢の南無阿弥(水野絵梨奈)、変態じみた売人ふうの猪神(村上淳)らと出会いながら、やがて凶悪なギャングのボス・千手(綾野剛)と対峙し無茶な戦いを挑んでゆく。いかにも石井監督らしいいかれた男騒ぎの映画だが、どれをとっても強烈なキャラクターの人物たちを、染谷将太を筆頭とする俳優たちが実に機嫌よく演じまくっていて、その祭り感覚がとにかく好ましい。紅一点の水野絵梨奈もマニッシュに意志が張り出した演技でその男祭りに溶け込んでいる。

深作欣二的な男どものちゃちな抗争と野合をめぐるシニカルな味もあれば、石井監督が影響を与えたタランティーノを逆輸入したような活劇のウィットもありで、間然するところない。決して予算が潤沢とは思えないなかで美術や衣装も上々のセンスで画面を充実させている。そもそもがブッチャーズことbloodthirsty butchersのライヴとドラマが交錯するロック映画という企画で立ち上がりながら、リーダーの吉村秀樹の急逝で空中分解しかけたこの作品を、石井岳龍はブッチャーズの楽曲にインスパイアされた新たなドラマとして再生させた・・・という隠れた「伝説」を持つこの作品だが、かといって石井監督は楽曲に無防備によりかかることはせず、あくまで映画をロック化するための手がかりとしてブッチャーズを引用してみせる。私が観たイマジカの試写では実に最初に耳栓を(いざという時のために)渡されて爆笑したが、石井監督の「推奨値」による爆音的大音量によるごきげんな上映であった。もし本作がだらしなくブッチャーズの楽曲に依拠したライヴ映画であったらその大音響が耳障りであったかもしれないが。

映画そのもののロック化。それは、南無阿弥の「ここまでやればもういいよ。もうこれ以上はばからしいよ。あんた死ぬよ」という日常性への穏やかな埋没をうながす説得を拒絶し、「千手を殺らないと、自分はだめなままだ」と無根拠なルールを己に課してカタストロフへ一目散に突っ走ってゆく大黒のキャラクターそのままに、生きていることの証しとして人物も映画自体もなぜともなく暴れなきゃだめなんだ、大事なのはソレダケなんだということの実践である。ただしかかる「映画は戦争だ」ならぬ「映画はロックだ」という石井岳龍のひたむきな映画思想は、石井が愛した実録やくざ映画やアメリカンニューシネマの頽廃や屈折よりも、耐え難きを耐えた忍従の末の爆発を定番とする任侠映画のクラシックさにむしろ近いという気がする。

しかしこの映画=ロック思想のストイックで倫理的ですらあるところが「石井印」たるゆえんであり、その教義に則る大黒も千手も恵比寿も猪神も、男どもはそれぞれのかたちで高潔さを志向して美しい。いやもう端的に映像として本作の男どもは美しいのである。そこではたと気づくのは、われわれが「石井聰互」に魅了されていたコアの部分とは、はちゃめちゃにロックする遮二無二さではなくて、ロックすることに対する(「石井岳龍」時代により露わな)”折り目正しさ”なのではないか。「石井岳龍」は決して「聰互」が世を忍ぶ仮の姿というわけではなさそうである。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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