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あまりに気の毒だった源明子(藤原道長の妻)の子の藤原顕信。なぜ出家したのだろうか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
比叡山延暦寺。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、源明子(藤原道長の妻)の子が出世を懇願する場面が描かれていた。その後、子の藤原顕信は出家したので、その理由を考えることにしよう。

 道長には源倫子という正室がおり、その間に頼通、教通らの男子をもうけた。頼通、教通は正室の子ということもあり出世が早く、のちに道長の後継者として、藤原氏の黄金時代を築いた。

 道長には、源明子という側室がいた。明子の父は高明といい、安和の変により失脚していた。いかに明子が名門の出自とはいえ、それはマイナスポイントだったのかもしれない。

 明子は道長との間に、頼宗、顕信、能信、長家という男子に恵まれた。とはいえ、明子は側室だったこともあり、その子らは出世の面で、正室の子の頼通、教通の後塵を拝することになった。ドラマで明子の子らが不満を漏らしていたのは、そういう事情があった。

 しかし、頼宗は従一位・右大臣、能信は正二位・権大納言(死後、正一位・太政大臣の官位を贈られた)、長家は正二位・権大納言までそれぞれ昇進したのだから、そんなに悪くないようにも思える。その中で、もっとも不幸なのが顕信だった。

 顕信は出家するまで、従四位上・右馬頭に昇進していた。そのまま行けば、それなりの地位にまで昇進できたと推測される。しかし、ある事件によって、顕信は突如として出家したのである。

 寛弘8年(1011)12月、藤原道雅(伊周の子)、頼宗とその弟が北野斎場で他人の悪口を言ったという。頼宗の弟の名ははっきり明記されていないが、顕信以外には考えられないという。

 同年12月、三条天皇は蔵人頭の藤原通任が参議に昇進したので、後任として顕信を起用したいと道長に述べた。ところが、道長は顕信がまだまだ力不足であること、他人からの謗りを招くとして、辞退を申し出た。これには、先の一件も絡んでいたという。

 この話を聞いた顕信は絶望し、にわかに出家したと伝わっている。あるいは、顕信が行願寺の行円の教えに感銘を受け、比叡山無動寺で出家したという話もある。仏道修行に励んだ顕信は、万寿4年(1027)に病死し短い生涯を閉じた。享年34。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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