【戦国こぼれ話】文禄・慶長の役の際、朝鮮人奴隷が日本で売買されたことをご存じですか?
バンクシーは、奴隷商人の彫像を引き倒して罪に問われている人々を支援するため、Tシャツを販売するという。
奴隷商人といえば、文禄・慶長の役で朝鮮人が日本に連行され、奴隷として売買されたことをご存じだろうか?
■文禄・慶長の役の悲劇
文禄・慶長の役(1592~93、1597~98)において、多くの朝鮮人が日本に連れ去られ、売買された。
それらの経緯を確認しよう。なお、以下、日本に連行された朝鮮人奴隷を朝鮮人被虜人という。
鄭希得が記した『月峯海上録』には、自身が日本軍に拉致された状況だけでなく、朝鮮人被虜人の様子が詳細に記述されている。
同書は最初『萬死録』という題だったが、希得の曾孫・徳林が刊行に際して『月峯海上録』と改題した。
内容の一部には、増補・竄入された箇所があると指摘されているので、以下の記述については、そのような箇所を除くこととする。
■捕らえられた希得
慶長2年(1597)9月、希得は全南霊光郡の七山島付近において、蜂須賀家政の家臣・森氏によって、兄弟、両親、妻、嫂、妹、幼児らとともに捕らえられた。
その際、母、妻、嫂、妹は、性的な乱暴をされることを恐れ、即座に海中に投身自殺した。
希得の父と幼児は、老人あるいは幼いがゆえに釈放されたという。
結局、希得とその兄弟らは、無念にも日本へと連行されたのである。
船のなかでは、捕らえられた朝鮮人の泣き叫ぶ声が響き渡ったと記されている。
航海の途中、同じように朝鮮人を運ぶ船と遭遇したが、嘆き悲しむ声が聞こえたのは同じで、希得は一睡もできなかったという。
それは、彼らが「これからどうなるのか」という大きな不安を抱えていたのだから、当然のことだろう。
まさしく、船のなかは、阿鼻叫喚の地獄のような様相を呈していたのである。
■脱走は失敗
同年11月、希得らは監視の目を盗んで、小船で脱走を試みた。
しかし、運悪く小船には櫓が付いていなかったので、うまく船を動かすことができず、すぐに日本軍に発見されて捕らえられた。
その際、不幸なことに、一緒に逃亡した鄭子平が溺死したのである。
連れ戻された希得らは、対馬(長崎県対馬市)に到着したものの、折からの暴風雨で船が壊れ、溺死する者もいた。
船の修理が完了すると対馬を発ち、平隊島、三宮島(以上、比定地不明)に立ち寄ったという。
■望郷の念止まず
対馬を発ってから約1ヵ月後、ようやく希得は阿波徳島(徳島市)に到着した。
希得は望郷の念が止まず、すぐにでも朝鮮に帰国したかったが、それは叶わなかったのである。
希得の場合は、それなりの記録が残っていたが、日本に連行された大半の朝鮮人は何ら記録を残していない。
その不安(あるいは日本軍に対する怒りなど)な心情については、改めて申し述べるまでもないだろう。
強制的に奴隷として日本に連行された朝鮮人被虜人の大半は、朝鮮半島に近いという地理的なこともあり、主に九州各地に住んでいた。
むろん、彼らを連行したのは、九州に本拠を置く諸大名だった。
■安かった朝鮮人奴隷
「佐護式右衛門覚書」(『分類記事大綱』附録四)には、朝鮮人奴隷の貴重な記録である。
佐護式右衛門は対馬藩士で、覚書が成立した明暦元年(1655)の時点で72歳だったので、文禄・慶長の役のときは10代の青年である。
内容で重要なことは、朝鮮出兵時に朝鮮の人々を捕らえて日本に連行し、下々の人までが朝鮮人を下僕として召し抱えるようになり、俄か主人となったと述懐していることだ。
当時の人々は、また秀吉が朝鮮出兵を実行すれば、もっとたくさんの下僕を召し抱えることができたと述べていた。
つまり、朝鮮出兵によって、下々の人々までもが、安価で朝鮮人奴隷を買うことができたのである。
■まとめ
戦争に伴う現地の人々の連行、そして奴隷として使役することは、悲劇以外のなにものでもない。
こうしたことが二度と起こらないよう、ただ願うばかりである。
【主要参考文献】
渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書(2021年11月刊)