世界は啓蒙思想から卒業する時期に来ているのではないか、それがアメリカ大統領選挙で問われる
フーテン老人世直し録(764)
文月某日
パリ五輪の開会式はセーヌ川に架かる橋に青、白、赤の三色のスモークが吹きあがるところから始まった。フランス国旗の三色をセーヌ川に描いてみせた演出である。青は自由、白は平等、赤は友愛を表すとフーテンの世代は子供の頃に教わった。
それは1789年にフランスが「革命」によって王政を打倒し、「自由、平等、友愛」を原則とする国に生まれ変わった「見習うべき歴史」として、つまり「自由、平等、友愛」こそが普遍の原理で、専制政治を打倒して民主主義を実現するのが正義だと教えられた。
開会式には様々な見世物が用意されたが、その中にフランス革命のシーンがあり、燃え上がる建物の中にギロチンで首を切られたマリー・アントワネットが登場して、フーテンはぎょっとさせられた。
王政を打倒するフランス革命は支配階級を次々に断頭台に送る暴力革命だった。フーテンの世代はその暴力を正義であると教えられたことになる。フランス革命より少し前のアメリカではイギリスの植民地支配から脱する独立戦争が起こり、その渦中で近代民主主義の基礎となる独立宣言が発せられた。
トーマス・ジェファーソンが起草した独立宣言は、「すべての人間は平等に作られている」と主張し「生命、自由、幸福追求」の権利を認め、それを抑圧する国家を暴力で打倒する「革命権」も認めた。独立宣言は1776年7月4日に代表者会議で採択され、それ以来7月4日がアメリカの独立記念日とされている。
アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に影響を与えたのは、宗教的な考えより人間の理性を重んじる啓蒙思想である。17世紀のイギリスで起こり、18世紀にフランスなど欧州に広がった。代表的な思想家としてイギリスのジョン・ロック(1632-1704)とフランスのジャン・ジャック・ルソー(1760-1830)がいる。
ロックは神から権力が与えられたとする王権神授説を否定し、個人には生命、健康、財産、所有、自由の権利があり、それを保証するため国民が負託する政府が必要だと主張した。その政府が国民から財産や自由を奪おうとすれば、国民には抵抗する権利があり、政府には立法権と行政権があるが、それを分離して立法権が行政権より優位に立つと主張した。
国民が代表者を選出する間接民主制や多数決原理で決定することもロックの思想に基づく。そして1760年代にイギリスで始まった産業革命とそれに伴う資本主義にもロックの思想が影響した。
ロックは「労働が生産物と私的所有権を生み出す」と主張して「私有」を認め、「所得は労働に比例する」として所得が不平等になることを肯定した。産業革命は農地の「囲い込み」によって農民を賃金労働者に変えたことから始まるが、ロックは「囲い込み」を擁護する立場だった。
経済学の出発点とされるアダム・スミスの『国富論』は、アメリカ独立宣言と同じ年の出版だが、スミスは利益の追求は「神の見えざる手」で調整されると主張して個人の利益追求を肯定した。つまり民主主義と資本主義はロックの思想を土台にしている。
一方、これに対抗した啓蒙思想家がジャン・ジャック・ルソーである。ルソーは私的所有と不平等を否定して結果の平等を求め、間接民主制や多数決原理にも反対し、直接民主制と全員一致で決定する仕組みを主張した。
ルソーの思想の出発点は、なぜ人類は不平等なのかである。原始的な狩猟採集社会に不平等はなかった。しかし人類が農業を始め、定住したことで私有と蓄積が生まれ、貧富の格差が広がり、そこから権力と専制が生まれた。そのため人類は戦争状態に置かれているとルソーは主張する。
ルソーは個人が私的財産をいったん共同体に差し出し、共同体の中で全員が「一般意思」を共有できれば財産を個人に戻すやり方を提唱した。「一般意思」を共有した個人はみな全体のことを考えて行動するようになり、不平等社会はなくなると言うのだ。
ルソーの思想はフランス革命に大きな影響を与えたが、その後カール・マルクスの共産主義思想やファシズムの全体主義思想にも影響する。第二次大戦ではファシズム思想が敗北し、ロックの思想に基づくアメリカ自由主義と、ルソーの影響を受けたソ連共産主義が対立する冷戦時代を迎える。
しかし1991年にソ連が崩壊し、アメリカが唯一の超大国として世界に君臨することになり、ルソーの思想はロックの思想に敗れた。その頃フーテンはワシントンに事務所を置いて米国議会情報を日本に送る仕事をしていた。
対立と戦争の時代が終わり、平和の時代が訪れることをフーテンは期待して米国議会の議論を見ていた。しかし歴史の現実はフーテンの期待とは逆の方向に向かう。
そもそもアメリカにはロックの思想を継承する共和党と、ルソーの思想に近い民主党という2つの政治潮流があり、共和党は個人の自由をさらに推し進めた新自由主義によって「小さな政府」を主張し、対抗する民主党は平等を重視して「大きな政府」を主張していた。
ところが冷戦後の最初の大統領である民主党のクリントンは「大きな政府の時代は終わった」と宣言し、冷戦に打ち勝ったロックの思想で世界を統一しようと考えた。クリントンはアメリカを「世界の警察官」と位置づけ、「21世紀はグローバリズムの時代」と言ったが、彼の言うグローバリズムはアメリカ民主主義による世界征服を意味した。
世界にはそれを進歩と考える人間もいるが、固有の価値観の否定に反発する人間もいる。究極の否定が9・11同時多発テロとなってアメリカを襲った。それに対する報復が「テロとの戦い」で、世界最強の軍事力を持つアメリカはアフガニスタンとイラクを専制主義の国として一方的に先制攻撃した。
しかしアメリカは史上最長となった「テロとの戦い」に勝つことができなかった。そこに登場したのが民主党とも共和党とも異なる立場のトランプ大統領である。トランプはおそらく啓蒙思想など考えない。300年前の思想にとらわれて、民主主義が素晴らしいとか専制主義が悪いとか、そんなことは机上の空論だと思っている。
それより利益を確保して国民を満足させるのが政治で、そのための取り引きを重要視する。しかし民主党も共和党もどっぷり啓蒙思想に染まっていて、そこにトランプの居場所はない。
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