形見のイヤリングにピカピカの病院 ーイラク人が取り戻したいイラクの姿
一時はその奇抜さがメディアの関心を集めたイスラム国ももう過去の存在と言ったところだろうか。残ったのは巨大な破壊跡とこれから街の復興をどうするのかという「地味」な問題。昨年12月にイラク首相がイラクでのイスラム国との戦闘に勝利宣言を出し、2月にクウェートでイラクの復興支援会議が開かれ、復興のための費用として各国から300億ドル(約3兆2000億円)の援助や投資が決まった。(イラク側が必要だと見積もった882億ドルには到底及ばないが)。汚職が起こりやすいイラクでこのお金はどう使われるのか。ここからがイラク人にとってのもう一つの正念場なのかもしれない。「支援」「援助」とはなんぞやと構えて考えて見る前に、イラクで出会ったある人たちのことを思い出す。
プレステし放題の「自由」
今から一年前、私はイスラム国との戦闘が続くモスルの近郊にあるアルビルを訪れていた。当時、モスルから多くの避難民がアルビルに逃れて来ていた。モスル出身のアブダラくん、12歳。彼とその家族も避難民だった。
アブダラは親戚一家15人と、2部屋の家に暮らしていた。インタビューを申し込むと、家族全員が集まってくれた。避難前は教師をしていたこの家の主人、アブダラのおじにあたるスダッドさんが口火を切った。
「イスラム国の支配下では、テレビや携帯電話を持っていることがわかれば処刑されたし、道を通行止めにして住民は首切り処刑を強制的に見せられたんです」
実際にスダッドさんもイスラム国の戦闘員がアパートの上から人を投げ落とすところや、処刑された遺体が橋や信号機にぶら下げられているのを目にした。イスラム国戦闘員にはイラク人と外国人の両方がいて、ティーンエイジャーも多かったという。スダッドさんはできるだけ関わらないように、話しかけられないように、そんな毎日を過ごしていた。
スダッドさんをはじめ大人たちが口々に話を聞かせてくれる間、小さな子どもたちは私の持つビデオカメラのモニターを見ようと鈴なりになって私の腕にしがみついていた。強烈な話を聴きながら、かわいい子どもの姿をみているこの状況に頭がクラクラしてくる。そんな小さな子ども達には加わらず、少し年上のアブダラは澄ました顔で大人たちの間に座って聞いていた。アブダラはイスラム国が来てから学校には行っていないそうだ。大人たちがアブダラが公開処刑を見なくてもすむように外出禁止を言いつけていたからだ。
−イスラム国が来てからは、ずっと家にいたの?
「そうだよ。暇だった」
− 勉強は?おじさんやおばさんが学校の先生の仕事をしているなら、教えてもらえるんじゃないの?
「へへへ、ずっとプレステしてた」
アブダラはちょっと照れて笑った。そうか、戦争が始まると退屈することもあるのか。恐怖や怒りという感覚ならあるだろうと想像することはできるけれど、「暇」というのは意外だった。イスラム国が来る1日前までは、平和とは言いがたくとも毎日学校に行って、時にどこかに出かけて、人と会って…という日常があったのだ。もちろんプレステをしていることがイスラム国にバレれば親と子ともども処罰されてしまうのでこっそりしていたそうだ。
イスラム国が来てから生活は苦しくなった。仕事は以前のようにはできなくなってしまったから収入は減る。家計のこととなると女性たちが俄然、力を込めて話し出した。
「調理用のガスボンベは100ドルもしました。イスラム国が来てからは、物流が制限されるから値上がりするんです」
砂糖、小麦、ガソリンとこと細かに教えてくれる。イスラム国は「恐ろしい」だけでなく、どういう言葉で表現したらいいだろうか、身近で「迷惑」なやつらだという感覚が伝わってくる。貯金を崩したり、親戚から借りたりして日々の生活費を工面していたそうだ。アブダラのおばあちゃんが教えてくれた。
「それでもお金がなくてね。金や宝石を売ってしのいだの。でも全部なくなってしまって、この指輪が最後。イラン・イラク戦争で死んだ夫からもらったもの。イアリングももうないの」
戦争が奪う「平和」とか「穏やかな暮らし」とかそんな言葉が意味するのは、形見のアクセサリーを売らなければならないこと、大好きなプレステをするしかなくなることでもあるのか。悲惨さや残酷さに目がいくが(もちろんそれを見ることも大事だけれど)、この人たちが失いたくないものはこんな素朴なものなんだなと想像する。
アブダラたちのモスルの家は、イラク軍の空爆にあって瓦礫になった。イスラム国のスナイパーが押し入って屋上を使っていたからだ。幸いにもその時、家族は留守だった。写真はないかと尋ねると、大人たちは携帯を持っていることがわかればそれだけで処刑されるから持っていないといった。しかし、さすがは今時の12歳。アブダラがこっそりと携帯に残していた。
−空爆されたのを見た時どう思った?
「腹が立ったよ」
インタビューを終えてお礼を言うと、今度は屈強な男どもがざわつき出した。一緒にセルフィーを撮ろうと言う。撮り終えて次は私から、「タバコを吸ったり、携帯を見たりいつも家にいるような雰囲気で撮影をさせてほしい」とお願いすると、みな一斉にタバコを吸い、携帯を触り始めた。なんともサービス精神旺盛なのだ。中東社会では成人男性たちは家族一家を支えないといけないという想いが人一倍強いという。女性には家事という仕事があっても、男性は仕事がなければ何もすることがない。かつての仕事を尋ねると、教員、床屋、パン屋と誇らしげに答えてくれた。避難先のアルビルでモスル出身の彼らが仕事を見つけるのは簡単ではない。取り戻したい暮らしの形がある。珍客が来て日々のストレスを少しばかり忘れようとしているみたいだった。
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2人の三角巾をした怪我人
取材に行くと私は大抵、援助機関の人間に間違われる。取材者だと説明しても、
「そうか、そうか、そうだったのか。わかったけれど、それで、えーっと、何かサポートはくれないのか」
人道支援者だったら毎回、歓迎されるのかと言ったらそうでもない。
「全然、物資が足りていないじゃないか!」
「国連やNGOは何をやっているんだ!」
ここにいる人たちにとっては人道支援は余裕があるからする慈善行為じゃないということをつきつけられる。
「ないんだ!」
「必要なんだ!」
「このままだと病気がさらに悪くなってしまう。死んじゃう!なんとかしてくれ」
あるのはむしろ怒りだ。
腕を負傷した2人の人に会った。1人はモスルに住む青年。
三角巾の中の右手はその指の先までだらんと垂れ下がっていた。腕の神経が切れてもう動かないという。
「高校を卒業して、家族の生活を支えることがずっと夢だったんです。医療的な援助をしてもらえませんか」
青年はイスラム国の支配下ではできるだけ家から出ないように生活していた。それでも時折イスラム国の戦闘員が家の前に来て彼をなじった。
「お前はなぜイスラム国に加わらないのか」
「イラク軍の攻撃に当たって死んでしまえばいいのに」
2016年10月にイラク軍による本格的な軍事作戦が始まり、彼の家のある地区を挟んでイラク軍とイスラム国が拠点を構えて交戦をするようになった。ある日、ミサイルが玄関先で炸裂した。夕食の準備をしていた母親が死に、彼自身もこの時、腕を負傷した。病院に運ばれたものの、病院もイスラム国がすべて支配している。簡単な治療は受けられたが、イスラム国のメンバーではないことを理由にそれ以上は治療は受けさせてもらえなかった。
「一緒にいた父親が怒って治療をするようにとイスラム国の人と喧嘩して訴えてくれたんです。母が死んだことも言ったんです」
しかしイスラム国の人間はこう言うだけだった。
「なぜイスラム国と一緒に戦わないんだ。私たちの仲間はたくさん死んだ。武器をもって戦え。そうでなければ出ていけ」
「高校を卒業して家族のためにやっと働けると思っていたのに。NGOでもなんでも僕ができる仕事がないか、あなたも少し考えてみてください」
もう1人、避難民キャンプで配給の列に並ぶ女性に出会った。大きな三角巾を右腕にしていた。ミサイルが家に落ちて2日間、意識不明だったそうだ。
「意識がなかったのでイラク軍かイスラム国か、誰が撃ったミサイルなのかももうわからないんです」
諦めたように答えた。彼女がわかるのは、自分を救助したのはイスラム国の人間だったということだけだ。イスラム国の運営する病院で1日治療を受け、それ以上は続けられないと言われて出ることになった。ただイスラム国の関係者から薬はたくさんもらったと教えてくれた。彼女を治療したのがイスラム国に働くことを強制された医者なのか、イスラム国のメンバーなのかはわからない。イスラム国に感謝の言葉は言わないにしろ、助けてもらえるなら藁をも掴むだろう。
腕に怪我をした2人。1人はイスラム国に攻撃され、もう1人はイスラム国に「救助」された。何が敵で何が味方かなんて、考えるのはとうの昔にやめているのかもしれない。もちろん意図的に攻撃するイスラム国と、巻き添えになって攻撃してしまうイラク軍側の攻撃では異なる。しかし、その時、助けてくれるものを必死で見つける。味方と敵、善と悪ではなく、どうやって生きられるかを探す。青年は最後までイスラム国に入らなかった。でも脅され、アメをちらつかされてイスラム国に入った人もいるだろう。そのことをただ責めたりなんてできるのだろうか。助けてという声を上げた時に、その声を受け止める場所は、いつもあったのだろうか。
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医師のプレゼンテーション
イスラム国の支配下では病院はイスラム国に管理されていた。先ほどの2人の負傷者が経験したように、戦闘員の治療が優先され、一般の住民は十分な治療を受けることができなかった。モスルのイブン・アル・アティール病院もその1つ。2017年1月、イラク軍が進軍してイスラム国が追い込まれると、イスラム国は病院に火を放って撤退した。
病院が解放されて2か月後、大きな損害を受けたその病院に人道支援関係者が支援内容を決めるための視察を行うというので同行した。ナジュワン医師が広い院内を丁寧に案内してくれた。
「ここは事務室でした。あちらは白血病患者の病棟。本当にきれいな病棟だったんですけどね」
天井から床まで煤がこびりついて真っ黒だった。焦げ臭い匂いが染み付いている。焼け残った小児病棟の壁に描かれたディズニーのキャラクターは、偶像を嫌うイスラム国によって顔だけ黒く塗りつぶされていた。言いようのないその破壊のエネルギーに頭がクラクラする。目の前に見える病棟をイスラム国は何かの拠点にしていたというので、詳しく尋ねようとすると、
「私たちには知ることさえできません」
医師は少しイライラしたように答えた。取材者としては好奇心から聞いてみたくなるところだが、医師たちの関心はそんな再建の役に立たない疑問よりも、今、この病院をどう再建するかだ。あまりの破壊の規模にただただ重い空気が私たち見学者の間に残った。再建までに一体どれだけの費用と手間がかかるのだろうか。暗い気持ちのまま病棟を出ようとすると、医師がすっと私たちの前に立ちはだかり、一呼吸置いて言った。
「はい、ここまでがダーク・サイド(暗い一面)でした。では改築されたらどう変わるか、次はライト・サイド(明るい一面)をお見せしましょう」
医師は「第二部」を用意していたのだ。しかし明るい一面とは一体何なのか。こんな悲惨な病院ツアーに医師は「趣向を凝らしている」。驚く私たちに、医師は「めげてばかりはいられない、どうだ」と言わんばかりに、一瞬にやりと笑ったようだった。
実のところ病院の再建はすでに始まっていた。焼け焦げた病棟の一番下の階は、ピカピカに磨かれ、病院スタッフがせわしなく働いていた。患者は日々、押し寄せていた。まだイスラム国とイラク軍が戦闘している地域もあり、そちらからミサイルが飛んでくることもある。負傷者はもちろん、慢性病の患者もいる。少しでも病院を使えるようにしようと、解放直後から病院スタッフは真っ黒になった病院の床やベッドを磨いて煤をこすりおとすなど大奮闘していたのだ。医者たちは無給で働いていた。支援を待っていては間に合わない。さらに驚かされたのはこれまでの改修費用の出所だった。
「国からの支援はまだありません。全部この街の人々から寄せられた寄付で行われています」
戦争で苦しんだモスルのために、モスルで一番活発に体を動かして働いているのはモスルの住民だった。一般のモスルの人たちは犠牲者でしかないと思っていたけれど、被害を受けた人が、同じ被害を受けた人を助けていた。
しかも医師は、こんな悲惨な状況の中なのに、ユーモアでもって、しかし、確実に外部の人たちに病院が必要としていることを伝えようとする。そのたくましさと柔軟さに、私は感服してしまった。病院の状況が酷いことには変わりないけれど、医師は「不幸」を「不幸」としてだけ甘受してはいられない。
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正直、簡単には今のイラクの状況には希望は感じられないと思ってしまう。でもイラク人に「希望がないね」なんて言ったら、お前なんかに言われたくないと言い返される気がする。取り戻したいのは普通の日常。亡くなった旦那さんが昔くれたイアリングを大事にできること、プレステをイスラム国ではなくて親から隠れてコソコソと楽しむこと、年取ったお父さんの代わりに自分が働きたいというまっすぐな夢、多くの人たちが待ち望む我らの病院をなんとかして機能させること。取り戻したい暮らしの形を知っている。「不幸」であることに甘んじてはいない人たちがいる。イラクでの援助や支援が話題になる時に、この人たちの顔を思い出してしまう。
(一部取材協力:イラクホープネットワーク)