【訂正報道に現れるメディアの質】元支局長無罪判決 産経もすべきことがあるのでは
訂正報道をするかしないか、する場合にどのような形でするか。そこにメディアの質、ジャーナリズム観、読者や社会に向き合う姿勢が現れる。昨年の朝日新聞問題の教訓をメディア界は生かしているのか。最近の三つの事例をとりあげて検証してみよう。
東京新聞の丁寧な「おわび」
東京新聞は12月11日付読者投稿欄で、「私のイラスト」のコーナーで掲載した作品が実際は投稿者の作品ではなく、「絵はがき」の絵だったとして、15日付朝刊でおわび記事を掲載した。誤って掲載した「絵はがき」の絵は、福島県楢葉町の障害者施設の運営者の作品だった。支援者らが販売し施設の運営に役立てていると説明し、絵はがき購入の問い合わせ先もあわせて紹介。「被災者支援の絵はがきでした」と見出しをつけ、誤掲載した絵を正しい作者名とともに再掲した。
従来であれば、せいぜい次のような小さな訂正記事が、紙面の片隅に目立たなく掲載されていたことであろう。
十一日「私のイラスト」に掲載した作品は、投稿者として紹介した方の作品ではありませんでした。「絵はがき」の絵を誤って掲載しました。おわびして訂正します。
おわび記事を出したのは、投稿を担当している読者応答室。読者からの絵はがきを使った意見投稿をイラストの投稿と勘違いし、誤って絵はがきの絵の方を採用してしまったという。鈴木賀津彦室長は日本報道検証機構の問い合わせに「イラストの投稿は本人に確認しないで載せることもあったのですが、今後はイラスト投稿も電話で必ず確認するようにミス防止策を改善しました。ミスを単に訂正するのではなく、読者にわかりやすく、お詫びの仕方を工夫したつもりです」とのコメントを寄せた。
一方、絵はがきの作者である早川千恵子さんは当機構の電話取材に「東京新聞のお詫びはとても丁寧でよかった。記事をみた何人もの読者から絵はがき購入の問い合わせが来た」と話していた。メディアの読者への誠実な向き合い方を示した好例であろう。誤報はメディアへの信頼を傷つけるが、誠実な訂正報道をすれば挽回できる。逆に読者との対話、読者にメディアの姿勢を知ってもらうチャンスにすればいい。こうした例はまだまだ少ないが、過去にも朝日新聞科学部が出した訂正記事を誤報をされた当事者が「訂正の良い見本」と評価した例があった(→【コラム】「誤りを訂正する良い見本を示した」朝日新聞)。
毎日:記事を誤配信し、こっそり「おわび」
毎日新聞は12月18日正午ごろ、同日に行われた日銀の政策決定会合について「金融緩和を維持」と見出しをつけた記事をニュースサイトに配信したが、まもなく削除された。日銀の発表を受け、改めて「金融緩和策を強化 補完措置導入」と題して配信した記事には「事実上の追加の金融緩和」と書かれていた。
元の記事は一時Yahoo!ニュースなどにも掲載され、「飛ばしか」との指摘がネット上で飛び交っていた。いうまでもなく、日銀の金融政策は市場に大きな影響を与える。短時間しか掲載されなかったとしても重大な誤報だった(→【GoHooレポート】日銀決定会合 「編集中の原稿を誤掲載」 毎日がおわび)。
実は、毎日新聞は同日、「おわび」記事をニュースサイトに配信していた。「編集作業中の原稿を誤って公開した」という。いわゆる「予定稿」を誤って公開したと考えられるが、「村上春樹ノーベル賞受賞」の誤配信事件が思い起こされる事例だった(→【旧GoHoo注意報】「村上春樹氏 ノーベル賞」 産経が号外誤配信)。
大手メディアがこうした「おわび」をニュースサイトに載せることは非常に珍しく、当然とはいえ評価すべきことである。朝日新聞と日本経済新聞はサイトに訂正記事専用ページを設けているが、多くの大手ニュースサイトは誤りがあっても削除して”隠蔽”するか、上書き修正して”改竄”している。個人ブログですら誤りがあれば訂正を明記するというマナーを守っている人が少なくないのに、である。
ただ、毎日の「おわび」はほとんど誰も気づかないようなところに載っていた。再配信された記事にも、ツイッターなどSNSでも「おわび」の告知はなかった。ためしにサイトのトップページを開いて、どこにあるか探してみてほしい。せっかく訂正を出しているのに、これでは意味がない。誤報は恥、極力知られたくない、という意識が強すぎるのではないか。
産経:落ち度認めず、外交問題化した記事を放置
12月17日、韓国・ソウル地方裁判所は朴槿恵大統領の名誉を毀損したとして在宅起訴されていた産経新聞の加藤達也・元ソウル支局長に対し、無罪判決を言い渡した。産経は号外を出し、「裁判所に敬意を表する」との熊坂隆光社長の声明を発表した。
しかし、無罪となった理由は、記事に問題がなかったからではなく、情報通信網法という特別刑法の犯罪の成立要件である「誹謗する目的」を満たさないと判断されたからにすぎない。記事が言及したウワサの内容は「虚偽」と認定され(3月の公判で認定され、加藤元支局長も「異議を唱えない」と表明)、「虚偽かもしれない」という未必の認識があったとも判断された。「誹謗する目的」を要件としない一般刑法の名誉毀損罪であれば危うかった。こうした裁判所の事実認定に対し、産経は紙面で全く異論を述べていなかった。しかし、虚偽のウワサを載せたと認定されたニュースサイトの記事は、1年4ヶ月以上たった今も何ら訂正せず掲載されたままなのである。
無罪を大々的に報じた産経の18日付朝刊は、判決が「虚偽」認定をしたことには触れつつも、この記事が適切だったと考えるのかどうかは一切示さなかった。紙面にも社長談話にも、日韓の外交問題となり、大騒動になったことについて「極めて遺憾」というだけで「ご迷惑をおかけした」「我々にも反省すべき点がある」といった言葉はなかった。
韓国側の起訴や出国禁止措置が不当であったことは論をまたない。無罪判決には私も安堵した。しかし、ジャーナリズムとしてみた記事の適格性は、これとは別次元にある。
読売新聞によると、加藤元支局長は記者会見で記事の問題点を韓国メディア記者に問われ、「ウワサと断って取り上げるのに、ためらう理由はない」と反論したという。そんなジャーナリズムの考え方は聞いたこともない。ウワサと断っても真偽不明のまま流布すれば、それを誤信して広まる例は枚挙にいとまがない。ウワサとわかっても信じてしまう人が少なからず出る、それがウワサの本質である。もちろんウワサを一切取り上げてはならない、ということではない。しかし、とりわけ名誉・信用にかかわる内容のウワサを取り上げる場合、その内容が「虚偽」だと明記したり、信憑性を否定する有力な情報を記さなければ、名誉・信用毀損のおそれが出る。そもそも、故・吉田清治氏の「慰安婦狩り」証言を繰り返し報じた朝日新聞に対し、「真偽不明」にしたまま明確に訂正することなく放置し、国際社会に「慰安婦の強制連行」の誤ったイメージを拡散させてきたと強く批判してきたのは、ほかならぬ産経新聞ではなかったか。
問題の記事はウワサについて「真偽の追及は現在途上」と書きつつ、信憑性があるかのように示唆する「証券筋の情報」なども独自に付け加えて報じたものだった。決して、韓国紙コラムの引用だけで成り立っていた記事ではなかった(→【GoHooレポート】産経前ソウル支局長「韓国紙引用」記事で起訴 実際は独自情報も記述)。たとえ、この記事に一定の価値があり、まるごと削除できないとしても、ウワサの内容が虚偽だとわかった時点で記述を加筆修正することもできたはずだ。しかし、それも一切なされていない。
産経の論調に近い読売新聞ですら、社説で「前支局長が風評を安易に記事にした点は批判を免れない」と指摘。「問題のコラム『取材不十分』」と題する社会面の囲み記事で「(コラム)は胸を張って『言論の自由を守れ』と主張すべき内容なのか」という識者のコメントを紹介したほか、解説面にも「前支局長や産経新聞は大いに反省すべき」という学者のインタビューも載せた。毎日新聞の社説も「事実関係を怠り風評を安易に書いたことは批判されても仕方がない。『うわさ』と断りさえすれば何を書いてもいいわけではない」と指摘。朝日、日経、東京新聞も社説で記事を問題視しており、ジャーナリズム論から産経を擁護する見方は皆無だった。韓国検察を「愚かな起訴」と切って捨てた韓国紙コラムも、記事を放置している現状をとらえ「記者にとって誤報は致命的なのにもかかわらず、恥とも思っていない」と指弾した。
さらに、こういう疑問もある。産経のニュースサイトには、チェックの甘い危うい記事が載りやすいという問題はないのか。問題を指摘された時点で違った対応をとれば、これほど大きな問題にならずに済んだのではないか。
産経はこうした指摘をどう受け止めるのか。まさか、人々が忘れたころに記事をこっそり削除してお仕舞いにしようというのではあるまい。裁判中は記者を弁護するのが第一だった、という言い訳ももうできない。判決確定時を過ぎたらチャンスを逸するだろう。ジャーナリズムの世界から致命的な審判が下される前に、産経にはすべきことがあるはずだ。
(*) 「故・吉田清司氏」は「故・吉田清治氏」の誤りでした。お詫びして訂正します。(12/25)