もとは意外に小物だった。織田信長家臣の丹羽長秀とは?
今や成果主義の時代。会社でも、途中から急に大出世する社員がいるに違いない。織田信長も成果主義を採用したので、実力のある家臣は、どんどん出世していった。
丹羽長秀もその1人だったので、紹介することにしよう。
丹羽長秀が尾張国で長政の子として誕生したのは、天文4年(1535)9月のことである。
丹羽氏は武蔵の児玉党の流れを汲む豪族で、のちに尾張国に本拠を移し、尾張守護で管領の斯波氏に仕えたという。そもそも丹羽氏は、織田家の譜代の家臣ではなかったのである。
長政の生涯はほぼ不明であるが、天文18年(1549)に没した。長政の没後、嫡男の長忠があとを継いだが、天文23年(1554)の清洲合戦で討ち死にしたという。
そのような事情もあって、丹羽家の家督を継いだのが次男の長秀だった。長忠は斯波氏に仕えていたが、長秀は天文19年(1550)頃から織田信長に仕えたという。当時、長秀は数え年で16歳だった。
長秀が初陣を飾ったのは、天文22年(1553)の梅津表の戦いだったといわれている(この戦いの詳細は不明)。弘治2年(1556)の稲生の戦い(信長と弟の信勝との戦い)では、信長に従い戦った。
当初、地味な存在だった長秀は、永禄6年(1563)からはじまる信長と斎藤龍興との戦いにおいて、大いに軍功を挙げた。その4年後、信長は龍興を美濃から放逐することに成功したのである。
一連の戦いにおける長秀の軍功は、大いに信長から評価されたのだろう。永禄11年(1568)、信長が足利義昭を奉じて入京すると、長秀に京都や畿内の行政を任せることにした。
信長の重臣としては、佐久間信盛、柴田勝家が確固たる地位を築いていたが、この頃の長秀はナンバー3ぐらいに位置していたという。長秀は戦いだけでなく、行政手腕も評価されたようだ。
こうして長秀は、木下(豊臣)秀吉、明智光秀、中川重政とともに京都支配を担当したのである。
長秀は織田信広(信長の兄)の娘を娶っていたので、丹羽家と織田家は縁戚関係にあった。そのような関係から、長秀が信長に引き立てられた事情もあろう。
とはいえ、長秀の存在なくして、その後の信長の躍進は考えられないのである。