敗戦後の食糧難の日本再建のために国をあげて南氷洋捕鯨開始 気象台も職員派遣
戦後の食糧難
終戦直後の日本は、食料不足によって餓死者が出るのではとの懸念がありました。
このため、国をあげて必要な船を集め、生き残った船員も集めて、昭和21年(1946年)から南氷洋で捕鯨を開始しました。
太平洋戦争が始まるまでは、南氷洋で捕鯨を行っていましたので、5年ぶりの再開とも言えますが、国際捕鯨取締条約が締結したあとの新しい枠組みでの開始です。
南氷洋で捕獲できる鯨の頭数をシロナガス鯨に換算する方法で決め、その頭数に達するまで各国が競争で取り合うという方式、オリンピック方式と呼ばれた方法での開始です。
日本は、国際社会から締め出されていたので、アメリカが特別に認めたことで参加が実現できました。
日本の食糧難は、占領政策での大きな課題となっていたからです。
中央気象台(現在の気象庁)も、政府の要請に基づき、職員2名を南極捕鯨団に派遣しています(表)。
気象大学校史(平成9年(1997年)、気象大学校校友会)には、最初に派遣された永松武生の「南氷洋捕鯨第一次出漁の回顧」という投稿が掲載されています。
これによると、中央気象台の永松武生が気象担当、下村敏正が海洋担当として第2船団(大洋漁業)の第一日新丸に乗船し、11月18日に長崎を就航し、11月25日頃にオーストラリア南端を通過、11月28日に漁場に到着しています。
そして、6時間ごとの観測を行い、天気図を書いて天気予報を行っていたとのことです。
南極大陸を真ん中にした立派な天気図用紙は用意してあったものの、これに記入するデータは誠に心細い限りであったものの、「捕鯨作業に影響が大きい霧の予報は誠に良く的中したので、船団長の私を見る目も随分変わり、おおいに面目をほどこした」とのことでした。
GHQの監視
日本の南極捕鯨船団には、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命によって、天然資源周漁業課のテリー大尉とマッククラツケン中尉が同乗しています。
船団が、全て司令部指令を守るかどうかを確認させるためです。
日本の食糧難から南氷洋での捕鯨を認めたものの、制限値を上回る捕獲をするなど、何かよからぬことをするのではないかという判断からです。
また、国旗を示す日の丸の掲揚は認められておらず、社旗(大洋漁業は丸に「は」の字の旗)のみの掲揚でした。
とはいえ、第一船団が1万4000トン、第二船団が2万トンの水揚げがあり、南氷洋での捕鯨は大成功でした。
この新聞では、鯨肉の築地への荷揚げが2月13日となっていますが、実際は、予定より早い11日でした。
一人30匁と言うと、一人約113グラムです。
この少ない量であっても嬉しいニュースであったと思われます。
第2次捕鯨以降
翌22年(1947年)の第2次では、第一船団の橋立に2名が乗船し、2つの会社に配慮がなされています。
そして、昭和24年(1949年)の第4次からはおのおのの船団に2名づつ、計4名が乗船するようになり、昭和28年(1953年)の第8次まで続いています。
のべ、26名が派遣されました。
その間、捕獲した鯨の頭数は、シロナガスクジラ換算頭数も、マッコウクジラ頭数も年々増えています(図1)。
昭和24年(1949年)7月30日に、第1日新丸と橋立丸の最高幹部が宮中に召され、昭和天皇に謁見をしています。
そして、「皆さん健康に留意されて今後も立派な成績をあげて下さい」という激励のお言葉を賜っています。
それだけ、南氷洋の捕鯨は終戦直後の日本にとって大きなことだったのです。
GHQの監督下にあったのは、第6次までですが、第6次ではGHQの代表を乗船させていません。
昭和26年(1951年)9月に講和条約が締結され、翌27年(1952年)4月28日の同条約の発効とともに日本本土の占領が終わっていますので、第7次と第8次は主権回復後の捕鯨ということになります。
筆者が若いとき、気象庁予報課で捕鯨船に出張した人と一緒に勤務したことがあります。
昭和28年(1953年)の第8次で、日新丸に乗船していた大先輩の長久昌弘予報官ですが、勤務は過酷であったものの、嬉しかったのは、下船時にお土産として一塊の鯨肉をもらったことだったそうです。
それだけ、当時の日本は食料に飢えていたんだと思いました。
昭和29年(1954年)以降は、気象台職員の派遣が難しくなりましたが、船団に気象や海洋の専門家が乗船している効果ははっきりわかっていました。
このため、各水産会社では気象の専門家を雇って観測や予報を行っていますが、これは商業捕鯨が終わるまで続いています。
地球温暖化の研究にも役立った観測
南氷洋は、希に冒険家の船が通るだけで、観測資料がほとんどない未知の海でした。
このため、捕鯨のために始めた南氷洋での気象と海洋の観測は、捕鯨船団が安全を担保しながらより多くの鯨を捕獲することに貢献しただけでなく、気象学や海洋学の発展に大きく貢献しています。
さらに、捕鯨のため日本から南氷洋へ往復している最中の観測も貴重でした。
昭和25年(1950年)からは、天然色写真と呼ばれていたカラー写真によって、日本から「南氷洋」に至るまでの海面を4~5度の間隔でフィルムに収め、海水の輝度変化を記録しています。
これにより南氷洋のみならず、太平洋におけるプランクトンの所在範囲や量などが確かめられ漁業上貴重な資料となっています。
太平洋の深層水は、北大西洋のグリーンランド沖でできた深層水が大西洋から南極まで南下し、南極付近にできた深層水と合流した後、南極大陸の周りを通ってインド洋と太平洋に流出してきたと考えられています(図2)。
つまり、海洋には、1000~2000年かけて地球を一周する流れがあり、海面近くの熱を深海に運んでいますので、これも含めて考えないと地球温暖化の予測はできません。
令和3年(2021年)のノーベル物理学賞は、真鍋淑郎博士が受賞しました。
テレビ各局では過去の真鍋先生のインタビューが流されていますが、その中で、つぎのようなものがあります。
「海をいれたおかげで、いろいろ面白いことが出た。この研究で分かったことは南極周回という流れで、南半球では、海面近くの熱を深海に運んでくれるので、温暖化は大きくならないが、北半球では緯度が高くなるほど温暖化が大きくなる。
つまり、海洋には、1000~2000年かけて地球を一周する流れがあり、海面近くの熱を深海に運んでいますので、これも含めて考えないと地球温暖化の予測はできません。」
真鍋淑郎博士の研究ができたのは、南氷洋捕鯨による観測成果も貢献しているといえるでしょう。
図1の出典:「きしょう春秋(平成5年(1993年)7月10日号)、きしょう春秋会」をもとに筆者作成。
図2の出典:饒村曜(平成26年(2014年))、天気と気候100、オーム社。
表の出典:読売新聞の記事より筆者作成。