【光る君へ】藤原伊周は、本当に詮子を呪詛したのか? 冤罪の可能性を探る
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原伊周が詮子を呪詛したのではないかと疑われていた。伊周は懸命に弁解したが、それは受け入れられなかった。今回は、その点について考えてみよう。
長徳2年(996)1月、藤原伊周・隆家兄弟が花山法皇を待ち伏せした際、従者の放った矢が花山法皇の衣の袖を射抜いた。この一報を耳にした一条天皇は激怒し、断固たる態度で事後処理に臨んだ。
その際、捜査を担当したのは、検非違使別当(長官)を務める藤原実資である。実資は、日記『小右記』にことの顛末を記録しているので、確認することにしよう。
同年3月28日、詮子は病気が重くなったので、院号、年爵、年官を辞退したいと、藤原道長に申し出た。ある人が言うには、詮子の病気の原因は呪詛が原因であるという。『小右記』には、「人の厭物」が寝殿の板敷から掘り出されたと書かれている。「人の厭物」とは、呪詛の道具なのだろう。
「人の厭物」が掘り出されたというのは、文末が「云々」とあるので、実資が実見したものではなさそうだ。詮子を呪詛したというのも「ある人」からの伝聞で、ましてや犯人が伊周と確定されたわけではない。朝廷では詮子の回復を願い、大赦を行うことにした。大赦とは、犯罪人の刑罰を減軽することである。
歴史物語の『栄花物語』によると、詮子が病気になったのは、伊周が呪詛したからではないかと書かれている。ところが、それは何らかの確証があるわけではなく、あくまで人々の噂にすぎない。では、なぜ伊周が疑われたのだろうか。
これはドラマのとおり、前年に道隆・道兼が相次いで亡くなった際、後継者問題が浮上した件に求められる。当初、道隆の子の伊周が有力な候補だった。
ところが、詮子(道長の姉)が一条天皇に道長を後継者に猛プッシュしたので、伊周は念願を叶えることができなかった。その後、伊周は腹いせとして、道長に数々の嫌がらせを行った。そういう事情により、人々は伊周のことを疑ったのだろう。
ところで、本当に伊周が呪詛を行ったのかは、なお確証を得ない。『日本紀略』には、伊周の罪状について「詮子を呪詛したという聞こえあり」と書かれており、伊周が呪詛を行ったのか明確ではない。大赦が行われた際も、呪詛が伊周の仕業であるとは書かれていない。
呪詛があったのは事実かもしれないが、本当に犯人が伊周だったのかは、まだ検討の余地があろう。