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短期免許を取得した騎手の「武豊に対する想い」と、故人と約束した叶えたい事とは……

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
レネ・ピーヒュレク騎手(左から2人目)と武豊騎手(同3人目)

武豊に対する想い

 1月14日、中山競馬場の最終レースを勝利したレネ・ピーヒュレク騎手。これが短期免許取得後の初勝利となったドイツから来たジョッキーには、日本で叶えたい事が2つあるという。

レネ・ピーヒュレク騎手
レネ・ピーヒュレク騎手

 「パリで初めて彼を見た時『あぁ、レジェンドだぁ!』って思って感動しました」

 ピーヒュレクは、武豊と初めて一緒にレースに乗った2021年10月3日を思い起こし、そう言った。

 ユタカは日本のレジェンドだからね、と言うと、彼はかぶりを振って答えた。

 「いえいえ、世界のレジェンドですよ。つい、横に並んでしまいました。畏れ多くて話しかける事は出来ませんでしたけどね……」

 ピーヒュレクはその日、その場所、すなわちパリロンシャン競馬場で行われた凱旋門賞(G I)をトルカータータッソで制するのだが、当時の思い出を伺うと、武豊とのそんな話を語り出し、更に続けた。

 「今はまたレジェンドと一緒にレースに乗るのが、楽しみで待ち遠しいです」

 今回、叶えたい事の1つが武豊との共演。そして「楽しみで待ち遠しい」事が、もう1つあると、続けた。

「ついレジェンドを追いかけた」という場面。前の白灰色の市松模様が武豊騎手で、後ろの黄色と赤と黒の勝負服がピーヒュレク
「ついレジェンドを追いかけた」という場面。前の白灰色の市松模様が武豊騎手で、後ろの黄色と赤と黒の勝負服がピーヒュレク

もう一人の憧れとの出会い

 1987年4月生まれだから現在36歳。父ジェンズ、母アイリスの下、3歳上の兄マイクと共にドイツのデッソウという街で育てられた。

 「競馬とは無縁の家庭だったけど、13歳の時には馬に乗りました」

 3年後にはサラブレッドに騎乗。すると、感じた事があった。

 「スピード感が爽快で、騎手になりたいと感じました」

 更に4年後、20歳の時、正式に騎手デビュー。すると、憧れの存在に出会った。

 「デビュー戦の競馬場で、初めて会話をかわしました。当時、彼は既にトップジョッキーだったので憧れの存在でした」

 それが、フィミップ・ミナリクとの出会いだった。

ピーヒュレク(左)とフィリップ・ミナリク(22年、イギリスにて撮影)
ピーヒュレク(左)とフィリップ・ミナリク(22年、イギリスにて撮影)

初来日の時の思い出

 先述した通り、ピーヒュレクが短期免許で来日したのは今回が初めて。しかし、日本に来る事自体は初めてではなかった。

 話は丁度10年前、2014年まで遡る。この年のジャパンC(G I)に、ドイツから挑んだのがアイヴァンホウ。この馬とレースでタッグを組んだのはミナリクだったが、ピーヒュレクは調教に騎乗するだけの為に来日。毎朝、同馬に跨っていたのだ。

 「調教だけなので、ダートコースでしか乗れませんでした」

14年にジャパンCへ挑んだアイヴァンホウ。手綱を取ったのは、調教に騎乗するために来日したピーヒュレク騎手
14年にジャパンCへ挑んだアイヴァンホウ。手綱を取ったのは、調教に騎乗するために来日したピーヒュレク騎手

 そう語り、更に続けた。

 「芝コースは自らの足で歩きました。歩いて、芝の上から巨大なスタンドを見上げ『いつかここで乗りたい』と願いました」

 そんな思いを、当時、ミナリクにも告げた。すると……。

 「『努力を怠らず、願い続ければ夢は叶うよ。日本に行けるようになったら、その時は一緒に乗ろう』と言ってもらえました」

14、15年と調教で騎乗するためだけに来日したピーヒュレク(鞍上)
14、15年と調教で騎乗するためだけに来日したピーヒュレク(鞍上)

凱旋門賞を勝った後の目標とは?

 以来、願い事は臆さず口に出すようにした。20年11月にはバイエルン大賞(G I)でサニークイーンに騎乗すると、トルカータータッソをクビ差負かして優勝。自身初のG I制覇を飾り、レース後のインタビューで、語った。

 「次の目標は凱旋門賞を勝つ事です!」

 するとそれから1年と経たない21年10月、本当に凱旋門賞(G I)を勝ってみせた。トルカータータッソを駆って、目標である欧州最大のレースを制した時の逸話を、次のように振り返る。

 「この時、フィリップ(ミナリク)は怪我で引退していたので、彼がくれた鞍を使って勝てました。彼と一緒に乗って勝ったと感じたモノです」

21年、凱旋門賞を勝利した直後、使用していた鞍に書かれた「F.MINARIK(ミナリク)」の文字を見せるピーヒュレク
21年、凱旋門賞を勝利した直後、使用していた鞍に書かれた「F.MINARIK(ミナリク)」の文字を見せるピーヒュレク

 凱旋門賞を勝った時の鞍は「その後、自宅に飾り、一度も使用していない」と言った後、再びレース後に思いを馳せた。

 「凱旋門賞を勝った後のインタビューでは『次の目標は短期免許を取得して日本で乗ること』と話しました」

 その後はその目標が叶う日が来るように、精進した。そんな本人以上に、日本へ行ける日を楽しみにしていたのがミナリクだった。ピーヒュレクは言う。

 「フィリップはいつも日本の話をしていました。日本茶が好きで、日本の競馬が好き。そして、日本の競馬ファンが大好きでした。僕が日本に行く時には必ずついて行くと話してくれていました」

 かつてミナリクがジャパンCに乗る際、サポートしてくれたピーヒュレクに対し、今度は自分がサポートする事で恩返しをしようと考えていたのだろう。しかし、残念ながらその約束は果たされなかった。ご存知の通り、彼は昨秋、他界してしまったのだ。

 「奥様から泣きながら電話が入り、訃報を聞きました。信じられなかったし、今でも信じられません」

生前のミナリク(左)。右はF・デットーリ騎手(イギリスにて)
生前のミナリク(左)。右はF・デットーリ騎手(イギリスにて)

 目標である短期免許を取得しての来日をついに叶えたピーヒュレク。冒頭で記したように「レジェンド・ユタカタケと一緒にレースに乗る事」に加え、もう一つ、楽しみにしている事があると言う。

 「14年前に『いつかはここでレースに乗りたい』と思った東京競馬場で、実際に乗れるのが待ちきれません。信じられない気持ちです」

 14年の時を経ての、東京競馬場での騎乗まで2週間を切った。先週の中山で来日初勝利を挙げた彼は言う。

 「乗せてくださるオーナーや、いつも笑顔で優しく接してくれる栗田徹調教師を始めとした多くの調教師、親切な日本のジョッキーや声援を送ってくださるファンら、沢山の人に助けていただき勝つ事が出来ました。これからも頑張りますのでよろしくお願いいたします」

 本来、その輪に加わっているはずのミナリクがいないのだけが心残りかと思いきや、それについては次のように語った。

 「彼は私の心の中で生き続けています。だから、彼と一緒に東京競馬場でのレースに乗れると考えています」

 東京へ行くまでに果たして幾つ勝ち星を重ねられるのか。ミナリクも指折り数えつつ、応援している事だろう。2人の願いが叶うまで、残すは10日。今週末も無事に乗り切れるよう、応援したい。

ピーヒュレク
ピーヒュレク

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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