マウスを流産させる「フェロモン」の謎
よく「フェロモン」という言葉を耳にする。「フェロモンを感じさせる女性」などという表現があるが、フェロモンとは生理的な臭いでもあり、情報伝達物質でもある。生物は多種多様な機能をフェロモンに持たせているわけだが、筆者は以前これについて何回か記事を書いた。
フェロモンは生物をコントロールする
例えばフェロモンには、個体数が密集すると分散させるような人口調整機能(線虫)があり、危険を警告する役割もある(アリなど)。もちろん、冒頭で述べたように性的な情報を交換することもフェロモンにはできるのだ。基本的に、フェロモンの役割は、ある特定の行動を即座に引き起こす「リリーサー効果」と内分泌系などの生理的な機能に作用する「プライマー効果」の二つに分けられる。
では、我々ヒトにフェロモンがあるかどうか、と言えばこれはかなり微妙だ。ひょっとすると、フェロモンのような似た物質を出しているかもしれない。だが、それを受信する器官が失われている可能性が高いからだ。当然だが、フェロモンは発信と受信がワンセットで機能する。
哺乳類などの脊椎動物の場合、多くは鋤鼻器(じょびき。ヤコブソン器官とも)という器官でフェロモンを識別している。この鋤鼻器を持つ生物の多くでは唇の奥のほうにあるが、アジアやアフリカにいる旧世界ザルとヒトを含む霊長類、アザラシやクジラ、ジュゴンでは、鋤鼻器は子どもの頃にだけあって大人になるとなくなるか、最初から退化してなくなってるか、あっても機能の疑わしい痕跡程度が残ってるくらいだ。
いずれにせよ、フェロモンは生物の生理に作用する。生理に作用し、その生物の行動をある程度コントロールする。
例えば、マウスのメスの場合、集団で飼育していると発情が不安定で遅くなったりする。そうしたメスの群にオスのマウスを入れると、発情が規則的になり、発情周期も同調してくる。これを「ホイットン効果(Whitten effect、※1)」と言うが、この効果はマウスのオスの尿の中にあるフェロモンによってメスのホルモン分泌が刺激されるためと考えられている。
ホイットン効果について有名なのは、ヒトの女子寮で共同生活をしている女性の集団の研究だろう(※2)。この研究によれば、ヒトでも生理の周期が同調すること(ドミトリー効果)があるようだが、この研究はかなり強く批判されてもいる(※3)。マウスとヒトは違う、ということだろう。
メスを流産させるブルース効果とは
さて、マウスのほうのフェロモンの話を続けるが、研究所などの実験用マウスで、妊娠したメスのマウスにお腹の子の父親以外のオスのフェロモンを嗅がせると妊娠の進行が止まり、流産してしまうこともあり、これを「ブルース効果(Bruce effect)」と言う(※4)。この理由については、交尾相手のオスからの妊娠の保証のようなものだとか、父親以外のオスの遺伝子を獲得するための戦術だとか、いろいろ考えられているが、フェロモンが子作りにも影響を与える、というわけだ。
このブルース効果、いったいなぜ引き起こされるのか、その原因物質は何か、論文が発表された1959年からずっと謎だった。その謎の解明につながるのでは、という研究成果(※5)が先日、米国の医学雑誌『Cell』の「Current Biology」で発表された。
この研究は、東京大学大学院農学生命科学研究科の東原和成教授らの研究グループと麻布大学獣医学部の菊水健史教授らの研究グループとの共同によるもので、初めてブルース効果の原因物質を特定したものとなる。同共同研究チームは、オスのマウスのフェロモン「ESP1」(※6)に着目し、ESP1をメスのマウスに嗅がせるなどして流産するかどうかを比較した。
同共同研究チームによる実験の図。白はESP1を分泌しないオスのマウス、黒はそのオスと交尾したメスのマウスだ。交尾後、父親ではない別系統のESP1を分泌するオスのマウス(グレー)と接触したり、ESP1が近くにあると流産するが、ESP1を分泌しない父親でもないオスのマウスと接触しても流産しない。プロラクチンは受精卵着床時に分泌量が増加するホルモン。プロラクチンが正常に分泌されないと受精卵が着床に失敗し、流産が引き起こされる。画像:科学技術振興機構(JST)のプレスリリースより。
ESP1を分泌する父親ではないオス、単に物質としてのESP1、という組み合わせではメスは流産し、分泌でのESP1がない組み合わせでは流産しなかった、と言う。ブルース効果では、妊娠後にほかのオスのフェロモンを嗅いだメスは流産するが、このフェロモンこそESP1だったというわけだ。また、共同研究チームは、個体ごとに異なる尿中の因子とESP1との協調的な働きが重要なのではないか、と言っている。ちなみに、このESP1というフェロモンの機能を発見したのも東大の東原和成教授らだ(※7)。
つまり、交尾した後、メスのマウスがESP1フェロモンの系統が異なったオスのマウスからESP1フェロモンを嗅がされると流産する、ということになる。ただ、ブルース効果が確認されているのは実験用のマウスのみで、野生のマウスにはない現象らしい。実験用マウスの系統は、日本由来のものも含め、長く品種改良されてきたが、これについてはその祖先系に何か原因があるのかもしれない。
涙と尿が重要か
オスのマウスの涙に含まれるESP1と尿中の物質などが複雑に作用するのではと考えられるブルース効果。涙については、ヒトの男性にも作用するようだ。ヒトの女性の涙には、男性のテストステロンを減少させる効果がある、という論文もある(※8)。男性ホルモンのテストステロンは、攻撃性や積極性といった行動に関係する。女性の涙が攻撃性を低めるのだとすれば、男性が女性の涙に弱い理由もわかるだろう。
また、オスのマウスの尿には、ホイットン効果のところで前述したようにメスのマウスの発情をコントロールするフェロモン作用がある。また、尿に含まれるタンパク質がフェロモンとなり、オスのマウスの攻撃行動を引き起こすことが知られている(※9)。
今回の発見では、ESP1というオスのマウスの涙に含まれるフェロモンが、メスの流産に関わっていることがわかった。メスがこのフェロモンを感じる受容体の遺伝子は、どうも免疫系の遺伝子に関係するようだ。
ヒトの場合、女性が男性を選ぶ際に免疫系の遺伝子の近さや遠さを基準にしている、という研究もある。マウスとヒトは違うと書いたが、こうしたフェロモンの機能、哺乳類の場合、どこかでつながっているのかもしれない。
※1:Whitten. WK, "Modification of the oestrous cycle of the mouse by external stimuli associated with the male." J Endocrinol 13, 3994-404. 1956
※2:McClintock, MK, "Menstrual synchrony and suppression." nature, 229(5282), 244-245, 1971
※3:Wilson, HC, "A critical review of menstrual synchrony research." Psychoneuroendocrinology, Vol.17, Issue6, 1992
※4:Bruce. HM, "An exteroceptive block to pregnancy in the mouse." Nature, 184, 105, 1959
※5:Tatsuya Hattori, Takuya Osakada, Takuto Masaoka, Rumi Oyama, Nao Horio, Kazutaka Mogi, Miho Nagasawa, Sachiko Haga-Yamanaka, Kazushige Touhara, Takefumi Kikusui, "Exocrine gland-secreting peptide 1 is a key chemosensory signal responsible for the Bruce effect in mice." Current Biology, DOI: http://dx.doi.org/10.1016/j.cub.2017.09.013, 2017
※6:ESP1:Exocrinegland-secreting peptide。オスのマウスの涙の中に含まれる70個ほどのアミノ酸からなるタンパク質で、マウスのオスが分泌する性的なフェロモンとされる。ESP1はメスの交尾受け入れ行動を促進し、他のオスに対する攻撃行動を誘発する。
※7:Sachiko Haga, Tatsuya Hattori, Toru Sato, Koji Sato, Soichiro Matsuda, Reiko Kobayakawa, Hitoshi Sakano, Yoshihiro Yoshihara, Takefumi Kikusui and Kazushige Touhara, "The male mouse pheromone ESP1 enhances female sexual receptive behavior through a specific vomeronasal receptor", Nature 466, 118-122, 01, July, 2010
※8:Shani Gelstein, Yaara Yeshurun, Liron Rozenkrantz, Sagit Shushan, Idan Frumin, Yehudah Roth and Noam Sobel ,"Human Tears Contain a Chemosignal", Science, Vol.331, No.6014, pp. 226-230 DOI: 10.1126/science.1198331, 2011
※9:Pablo Chamero, Tobias F. Marton, Darren W. Logan, Kelly Flanagan, Jason R. Cruz, Alan Saghatelian, Benjamin F. Cravatt & Lisa Stowers, "Identification of protein pheromones that promote aggressive behaviour", Nature 450, 899-902, 6, December, 2007