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少人数学級はなにに効果的なのか? 財務省と文科省の攻防、両者が見落としているもの

妹尾昌俊教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表理事
(写真:アフロ)

 来年度予算をめぐって、財務省と文科省との攻防が見えてきました。最も大きな争点のひとつが少人数学級の是非。10月26日に行われた財務省の審議会では、1クラスあたりの児童生徒数を減らしても、「学力」への効果はないか、あっても小さいことを示す先行研究が多いとする資料を財務省は提出、委員の議論でも「全国一律の少人数学級の導入には否定的な意見が多数を占めた」ようです(毎日新聞10/27)。

 これに対して、文科省は昨日(27日)、ホームページ上で反論資料を公表しています。

 さて、わたしは財務省にも文科省にも与するつもりはありませんが、両者の主張には、重大な見落としがあるのではないか、と考えています。あるいは「優秀な」官僚であれば、意図的に隠している(避けている)のかもしれません。きょうはそのことをお話しして、少人数学級の議論を深めるための視点と注意点を共有したいと思います。

※財務省と文科省の資料は下記から入手できます。

https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/hensei/003/mext_00995.html

(写真素材:photo AC)
(写真素材:photo AC)

■少人数クラスは「学力」向上に有効なのか?

 まず、両者の主張を確認します。論点はかなり多岐にわたりますが、主要な争点のひとつは、少人数学級をめぐる効果です。

 財務省提出の資料はこちら。

財政制度等審議会財政制度分科会資料より一部抜粋
財政制度等審議会財政制度分科会資料より一部抜粋

 対して、文科省の反論はこちら。

「財政制度等審議会財政制度分科会歳出改革部会資料についての文部科学省の見解」より一部抜粋
「財政制度等審議会財政制度分科会歳出改革部会資料についての文部科学省の見解」より一部抜粋

 対立しているようにも見えますが、実は共通しているのは、学級規模と「学力」との関係については、さまざまな先行研究があり、少人数学級にすることで「学力」向上の効果があるというものもあれば、ない(または、あっても小さい)という研究もある、ということです。

 財務省の主張、あるいはこれに近い研究者の主張としては、効果が不確かなものに、多額の財政支出をするべきではない、ということでしょう。あるいは、貧困家庭など、社会経済的背景が低い子どもが多い学校では、少人数学級にする効果が認められたという研究もあることから、全国一律、一斉に30人学級などにするのではなく、そうした困難度の高い学校において、重点的に少人数学級にしてはどうか、という意見もあります。

 対して、文科省のペーパーは教育再生実行会議での委員の発言などを引用していますが、これは、ある特定の地域の話、あるいはその委員の眼を通して見た印象論の側面もありますから、説得力が高いようには、わたしには見えません(おそらく財務省にとってもそう見えるでしょう)。たとえば、少人数クラスにおいて児童が落ち着いた生活を送ることができた、という見解が紹介されていますが、それは少人数クラスだったからなのか、それとも、担任の先生等の接し方や指導がよかったからなのか、あるいは友人関係でいじめ等に遭わなかったからなのかなど、要因を特定できず、ツッコミどころ満載です。(学校現場や教育長らの見立て、気づきが重要ではない、と申し上げているのではありません。全国の制度を議論する際の、強い根拠となり得るのかという話をしています。)

 こうしてみると、財務省の主張のほうが理にかなっているように見えますし、少なくとも、文科省や少人数学級を提案する方は、もっと説得材料をもってくる必要があるように見えます。

 ところが、財務省の見解にも問題なり限界があります。文科省にも言えることですが。

(写真素材:photo AC)
(写真素材:photo AC)

 第一に、おもには学力テストの国語や算数・数学の点数をもとに「学力」を評価しています。児童生徒へのアンケート調査をもとに自己肯定感などを測定している研究もありますが、圧倒的多数は、ペーパーテストの結果をもとにしています。言うまでもないことですが、「学力」とはペーパーテストで測定できない資質・能力も含みますし、国語や数学だけでもありません

 第二に、変数化、定量化できない要因、背景事情の影響が、無視されています。分析対象外の典型的な要因の候補としては、教師の力量(指導力等)を思いつきます。教師の力量をどう評価するかはまた議論のあるところですが、ひとまず置いておきます。仮に力量のある教師が少人数学級を受け持つと、児童生徒の課題等への丁寧なフィードバックができ、児童生徒の好奇心や学習意欲が、1クラス40人のときよりも、高まるかもしれません(学力テストの結果に影響する)。逆に、力量の低い教師の場合は、学級規模によらず、子どもたちの学習意欲等は高まらないかもしれません(よって、学力テストの点数には影響しない)。

(写真素材:photo AC)
(写真素材:photo AC)

 第三に、これは仕方がないことですが、先行研究ではこれまでの指導方法や授業を前提にして、学級規模の縮小がペーパーテストの結果に影響するかどうかを評価しています。仮に法改正されて、1クラス30人以下などが恒常化すれば、それに応じた指導方法に変わっていく可能性はあります。そういう未来志向的なところは評価できませんし、「効果を示すエビデンスを出せ」と言われても、困難が付きまといます(モデル的な事業から評価するなど、いくつかできることはあるでしょうが)。

 つまり、「少人数学級は教育上、有効か否か」という問いに対しては、上記のような制約や限界がありつつ、分かる範囲ではこうです、という回答になります。「さあ、これが少人数学級の効果についてのエビデンスだ」と財務省、文科省が言っているものにも限界はあります。もちろん、さしたる根拠もなく進めるわけにもいかないでしょうが。

■未来ストーリー

 未来志向で考えると、一例ですが、次のようなストーリー、ロジックが考えられるのではないでしょうか。たたき台になるかどうかも分かりませんが、あくまでも一案です。

(※)わたしは過去の記事で書いてきたように、少人数学級を推進するよりも、別のもの(小学校等の授業負担軽減のための教員増)に投資するほうが優先度は高いと考えていますが、ここでは、自分の意見は横に置いておきます。

 

 さて、日本の国力は、今後どうなるでしょうか?国力にはGDPなどの経済的な要素だけでなく、精神的な豊かさや文化的なもの(ソフトパワー)などもあるでしょうが、いったん経済的なところに注目して、ごく単純化すると、

 国力=人口×1人あたり付加価値

 と考えられます。日本の場合、人口はすでに減少社会(労働力人口も大きく減少傾向)ですし、すぐに増やすのは難しいですよね。これまでの少子化対策はことごとくうまくいかなかった、との評価もありますし、仮に赤ちゃんの数が急に増えても、労働力になるのは20年近く先。また、大量の移民が来ると想定することも困難です。

 こうなると、1人あたり付加価値を高めていくのが筋です。ここには、企業努力や政府の規制緩和なども影響するでしょうが、教育が果たす役割も大きいと思います。行政や学校、企業でハンコ(押印)をやめることだけでは、絶対ムリです!

 財務省の主張は、少子化に伴い、教員や学校教育にかける予算は減らすのが筋だというロジックです。しかし、少子化で人口減少局面であるからこそ、もっと人に投資しないと、天然資源等の貧しい日本の将来は大丈夫なのか、という見方が必要だと思います。

 さて、1人あたり付加価値を高めていくためには、顧客に支持される製品・サービスを提供し続けていくことが必要ですが、これには、おもに2通りの方法があります。ひとつは、コストで勝負すること。よそよりも低価格で、それなりにいいものを提供すると喜ばれますよね。しかし、人件費などが安い国はたくさんありますから、多くの日本企業等にとってコストだけで勝負するのは難しいでしょう。

 もうひとつは、高付加価値の製品・サービスを提供することです。しかも、まねされにくいもので。「イノベーションが必要だ」とよく言われるわけです。

 さて、模倣されにくいような、高付加価値の製品・サービスをつくるには、教育の文脈では、3つのことが重要になると思います。これ以外もあるでしょうが、大きなところとして。

■1)尖った人材が育つ、学習の個性化

 第一に、「尖った人材」が重要となります。「尖った」の定義は曖昧ですが、自分の得意なことや好きなことを深めつつ、一見関係なさそうなものを組み合わせて、新しいものを生み出す人材をイメージします。「異能」などとも呼ばれます。

 低コストで勝負するなら、上司の命令やマニュアルにそって、正確にスピーディーに仕事をこなす人材のほうが重宝されやすいかもしれませんが、そういう従順な人材だけでは、おそらくイノベーティブなものは生まれません。

 学校教育の役割は、けっして、経済発展に資する人材を育てることだけではありませんが、教科書にある基礎・基本をまんべんなくおさえているよりは、多少アンバランスがあっても、突き抜けたものをもつ人材をもっと大事にしていく必要がある、という見方もできると思います。

(※)基礎・基本が重要ではない、と申し上げたいのではありません。

 しかも、GIGAスクールで、小中学生一人一台端末がまもなく整備されます。ICTを使わなくても探究的な学びはどんどんやっていけますが、インターネット上の世界ともつながることで、一層、子どもたちの個性や探究したいことを伸ばしやすくなります。これは最近のキーワードで言うと「個別最適化」のひとつかもしれませんし、「学習の個性化」です。

 たとえ話と言いますか、イメージアップのために具体的な例をあげると、音楽の授業で、従来であれば、同じ曲を40人の児童がみんな鍵盤ハーモニカ(あるいはリコーダー)で練習しています。これは、昭和の頃から令和の今日まで、あまり変わらない風景のひとつでしょう。

 ところが、パソコンやタブレットがあると、児童一人ひとり違った曲を練習したり(ソフトが正しい音や演奏方法を個別に指導してくれたり)、違った種類の楽器の音で演奏したり、あるいは、ある子は作曲を始めたりすることがやりやすくなります。

 さて、(説明が長くなりましたが)ここで問題。こうした授業で、1学級40人いるほうがよいでしょうか、20人などのほうがよいでしょうか?

(写真素材:photo AC)
(写真素材:photo AC)

 おそらく、少人数学級を推進したい派(文科省など)の根拠としては、このように児童生徒一人ひとりが違ったことを進める、あるいは個性をより大事にして伸ばしていく教育を充実させるためには、40人もいたのでは、なかなか一人ひとりの進ちょくや課題に応じて、先生はフィードバックや助言をしにくいだろうから、少人数学級のほうがよい、ということかと思います。

 ここでは音楽の例を出しましたが、たとえば、社会科で、「鎌倉幕府と室町幕府は何がどう違うのだろうか、あるいは同じだろうか。それはなぜだろうか」という問いについて、生徒それぞれの視点、アプローチから調べて、深めていったりする授業でも、似たことが言えると思います。

※上記はあくまでも例です。わたしは音楽教育や社会科教育の専門家ではないですし、もっといい例がある方はお教えください。

■2)底上げ

 第二に、低学力層、もしくは、あまり学習意欲が高くない層を高めることが重要です。人口減少社会なのですから、置いてきぼりの子を増やして、社会人としての戦力が低いままにしておく余裕はあまりありません。なお、もちろん、学校や入試での成績=社会人としての力ではありませんが。

 最近の日経新聞(10/26)に法政大学の児美川孝一郎教授はこう寄稿しています。「中間層を含むごく普通の生徒たちが、高校で学ぶ意味や意義を実感できていない」ことが大きな問題である、と。

 いま財務省と文科省で議論されているのは、小中学校での少人数学級なので、高校は蚊帳の外ですが・・・。仮に児美川先生の見立てが正しいとすれば、高校段階で学習意欲等の低い生徒は、おそらく小学校か中学校のときにも、何らかの課題があったのだろうと思います。そこを少人数学級になれば、文科省や一部の委員が言うように「きめ細かく」ケア、支援できるかどうか、ということが問われています。

■3)インクルーシブ教育の充実

 第三に、学校でもっと多様性を大事にする必要があります。先般の中教審(中央教育審議会)の中間まとめ「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~」(10/7)においても、小中学校について、次の記述があります(p.47-48)。

特別支援学級と通常の学級の子供が共に学ぶ活動の充実の観点から,通常の学級に特別支援学級の児童生徒の副次的な籍を導入し,学級活動や給食等については原則共に行うこととすることや,教科学習についても,児童生徒の障害の程度等を踏まえ,共同で実施することが可能なものについては,年間指導計画等に位置付けて,年間を通じて計画的に実施することが必要である。

 実際、前掲の文科省の反論資料のなかでも、特別支援教育や外国人児童生徒など、特別なケアが必要な子は、ここ10年前後で大幅に増加していることが示されています(次の図)。

(前掲、文科省資料より一部抜粋)
(前掲、文科省資料より一部抜粋)

 イノベーティブなものを生み出すには、新しいことを貪欲に探索していくことが重要です(「両利きの経営」の理論など)から、組織の所属員や出会う人の多様性が高いほうが望ましいでしょう。また、特別なケアが必要な子が「尖った人材」になるケースもあります。こうした文脈を踏まえると、小学校、中学校(あるいは本来は高校でも)、普通教室において、もっと様々な特性や個性のもつ子がインクルーシブにいて、関わり合い、協働で学習することが望ましいのだろう、と考えられます。

 一方、こうしたケアが必要な子のなかには、個別の丁寧な対応がより必要だったり、学校に慣れるまでに時間がかかったりする場合もありますから、1クラス最大40人いるよりは、もっと少ないほうがよいだろう、と考えられます。

 以上、1)尖った人材が育つ、学習の個性化、2)底上げ、3)インクルーシブ教育の3つの意味、視点で、学校教育に投資しないと、1人あたり付加価値が高まるような日本にならないかもしれません。文科省等も、具体的にこうした未来戦略を描いて、示していく必要があるのではないでしょうか?

 もっとも、こうしたストーリーにも難点、批判されるべき点も多々あると思います。

 ひとつは、たとえば1クラス30人以下になれば、ただちにすべてうまく回り出すようなものではありません。少人数学級がバラ色ではないはずで、副作用やマイナスもあると思います。また、学級規模を小さくしなくても、ティームティーチングの教員や支援員を増やす方策のほうが有効かもしれず、他の政策との比較検討も必須です。あるいは、学校に期待し過ぎるのでいいのかどうかという議論も必要でしょう。たとえば、「尖った人材」をより伸ばしていくのは、スポーツの世界でのトップアスリートの育成と同様に、学校外が担うべきかもしれません。

 本稿のタイトルは「財務省と文科省の攻防、両者が見落としているもの」としました。両者が見落としているもの、あるいは意図的かどうかは知りませんが、議論を避けているのは、上記のようなビジョンと戦略ストーリーがないまま、少人数学級って必要なのか、議論していることです。また、他の政策手段との比較検討もあまりなされていません。もっと広い視点から、深められることはあるはずです。

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教育研究家、一般社団法人ライフ&ワーク代表理事

徳島県出身。野村総合研究所を経て2016年から独立し、全国各地で学校、教育委員会向けの研修・講演、コンサルティングなどを手がけている。5人の子育て中。学校業務改善アドバイザー(文科省等より委嘱)、中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」委員、スポーツ庁、文化庁の部活動ガイドライン作成検討会議委員、文科省・校務の情報化の在り方に関する専門家会議委員等を歴任。主な著書に『変わる学校、変わらない学校』、『教師崩壊』、『教師と学校の失敗学:なぜ変化に対応できないのか』、『こうすれば、学校は変わる!「忙しいのは当たり前」への挑戦』、『学校をおもしろくする思考法』等。コンタクト、お気軽にどうぞ。

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