平成の五輪が映し出したもの。岩崎恭子、有森裕子、北島康介……アイドルと科学と社会性と。
平成時代の五輪は、社会の流れの中でさまざまな様相を呈しながら、つねに新しい次の姿を見せてきた。アイドルの出現、科学サポートを得ての強化、そしてアスリートの地位向上。新しい時代「令和」に初めて行われる東京五輪。スポーツやアスリートは五輪を通じて社会の中で価値を示すべき存在になれるだろうか。
■女子アスリートへの注目。岩崎恭子、有森裕子が開いた扉
それはセンセーショナルな光景だった。1992年(平成4年)のバルセロナ五輪。時代が昭和から平成に移り変わり、平成初となる夏季五輪の競泳女子200m平泳ぎで、まだ14歳の岩崎恭子が金メダルを取り、「今まで生きてきた中で、一番幸せです」とうれし涙を流した。
中学2年生の快挙に、日本列島は沸き上がった。帰国後の“恭子ちゃんフィーバー”は大変なもので、行く先々に彼女をひと目見ようというファンが大挙した。岩崎は今なお語り継がれる名セリフとともに、国民のアイドルになった。
1996年(平成8年)のアトランタ五輪では陸上女子マラソンの有森裕子がバルセロナ五輪の銀メダルに続いて銅メダルを獲得し、「初めて自分で自分を褒めたい」と感極まった。有森は当時29歳。こちらも名セリフとともに自立した女性アスリートとして喝采を浴び、CM出演の依頼が続々と舞い込んだ。
さらに2000年(平成12年)のシドニー五輪では、柔道女子48kg級の田村亮子(現・谷亮子)がバルセロナ五輪から3度目の五輪挑戦で悲願の金メダルを獲得し、女子マラソンの高橋尚子も頂点に立つ。
平成になってから最初の約10年間の五輪で女子選手が残した功績は非常に大きく、日本で五輪人気が確立する大きな要因となった。社会的なインパクトが大きかったのである。
実際のところ、この時期は、日本全体としてとらえると金メダルが極端に少ない低迷期(バルセロナ五輪は3個、アトランタ五輪も3個、シドニー五輪はやや持ち直して5個)だった。それでも五輪の社会への訴求力が落ちなかったのは、アイドル的な人気を誇った岩崎が開いた扉に他の女子選手が次々と続いたからだったのではないか。
扉を開いたという意味では有森の果たした役割も大きい。CM出演の依頼を受けた当初は、日本オリンピック委員会(JOC)が選手の肖像権を管理していたことで、出演の許可が下りなかったが、やがて有森はプロ宣言に打って出る。こうしてアスリート個人の権利を尊重し、社会に於けるアスリートの地位を向上させる仕組み作りの扉を開いていったのだった。
■科学サポートで躍進した次の10年
1990年代の低迷期はJOCとその加盟競技団体に強い危機感を抱かせた。特に、アトランタ五輪では3個の金メダルがすべて柔道。かつてお家芸だった体操や競泳でメダルがゼロとなり、惨敗ムードに覆われた。
1984年のロサンゼルス五輪を契機に商業化が進み、大金の流れとともに最先端の科学的アプローチで強化を行う強豪国に勝つためには、旧態依然の根性トレーニングから一歩抜けだし、新たな方策を打ち出す必要があった。
危機感に包まれた空気が後押しする形で誕生したのが、国立スポーツ科学センター(JISS)だ。20世紀から21世紀に移り変わった2001年(平成13年)10月、東京都北区に完成したJISSには、競泳、シンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)、体操、柔道の専用練習場が設けられた。そこには最新鋭の機器とノウハウ、各分野の専門家がそろっていた。
施設の完成後、当該競技の強化選手たちは科学分析や医科学のサポートを受けられるJISSで合宿を繰り返し、競技力を向上させていった。この結果、2004年(平成16年)のアテネ五輪で日本は金メダルが1964年東京五輪に並ぶ史上最多の16個となる。
競泳の北島康介は科学的なアプローチが可能なJISSで「チーム北島」と呼ばれるメンバーのサポートを受けながら実力を伸ばし、男子100m平泳ぎと200m平泳ぎの2冠を獲得した。
体操では、アテネ五輪の約1年9カ月前の2001年11月に左ひざ前十字靱帯断裂の重傷を負った水鳥寿思が、JISSのクリニックに勤務していたひざの名医の手術を受け、JISSのリハビリ施設を使って復帰プログラムをこなし、それと並行して負傷と無関係にトレーニングできる種目の練習をJISSの体操専用練習場で行った。アテネ五輪の劇的な団体金メダルの一端は、まさにJISSが担った。水鳥の場合は1つの施設内ですべてがそろう強みが最大限に生かされていた。
アテネ五輪で金メダルを獲得した競技は陸上、競泳、体操、レスリング、柔道と、数だけではなく幅でも広がりを見せる。環境を整えることで目に見える成果を得られることを証明したJOCは、国の予算を獲得することに成功し、2008年(平成20年)、各競技団体の悲願だったナショナルトレーニングセンター(NTC)が本格的に始動。同年に行われた北京五輪では、著しい経済成長の流れにも乗って国家を挙げて選手強化に取り組んだ中国に押されはしたが、日本勢は北島が2大会連続2冠を達成するなど、一定の継続性を示すことに成功した。
NTCとJISSの効力は2012年(平成24年)のロンドン五輪、そして2016年(平成28年)のリオデジャネイロ五輪でも引き続き生きた。日本はロンドン五輪で当時の史上最多となる38個のメダルを獲得し、リオ五輪ではそれを塗り替える41個のメダルを手にしている。
■アスリート人生とは社会の中で価値を示す生き方
2013年(平成25年)9月に2020東京五輪の開催が決定し、スポーツ界が歓喜に包まれてから間もない時期のことだった。激震が走った。柔道で女子選手への指導陣による暴力行為やパワーハラスメントが発覚した。
2018年(平成30年)にはレスリング、ボクシング、体操でもパワハラ問題が起きた。非五輪競技であるアメリカンフットボールでも反則タックル指示の問題が露見。それぞれ内容は異なるが、次から次へと出てくる不祥事や騒動は人々の不信感を強めていった。
自国開催の五輪を間近に控え、国民の目は鋭くスポーツ界を見つめている。問題が起きた競技団体は多額の費用を掛けて第三者委員会を立ち上げ、調査を行う。そこで感じるのは、どういう結論となろうとも、どこかすっきりしない部分が残ってしまうということだ。また、一方ではアスリートファーストという概念の捉え方が、果たしてこれで良いのかという疑問を持たれることも出ている。
かつて有森裕子がものすごい労力を払って切り開いたプロアスリートという地位。その後、水泳の北島や体操の内村航平など、多くのトップアスリートがその道を踏襲していき、多くの素晴らしい功績により社会でのアスリートの地位を向上させているのは周知の通りだろう。
平成の最後の今、あらためて確認しておきたいのは、真のトップアスリートとは社会の中で価値を示すべき存在だということだ。そこが揺らいでいては、アスリートの未来に光は当たらない。
日本での五輪開催は昭和時代が2度(東京五輪、札幌冬季五輪)、平成時代が1度(長野冬季五輪)、そして来る令和時代には東京五輪が開催される。アスリートは五輪を通じて豊かな社会をつくりあげていくことができるか。世紀をまたいだ30年間の平成時代の最後、スポーツに携わる自分自身にも問いかけておきたいことである。
(敬称略、選手名は当時)
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】