「戦争の世紀」を俯瞰、8世代140年にわたって紡がれる壮大な叙事詩『森 フォレ』
3時間40分の長丁場な舞台である。だが、1幕より2幕、2幕より3幕と加速度的に時間が過ぎるのが速くなる。そして、観終わったあとには長旅を終えたかのような達成感がある。世田谷パブリックシアター『森 フォレ』は、そんな見応え十分な一作だ。
ワジディ・ムワワドによる「約束の血」4部作のうちの第3弾にあたる。これまで『炎 アンサンディ』『岸 リトラル』を上演し好評を博してきた世田谷パブリックシアターでの、待望の上演である。演出も前2作に続き上村聡史が担当する。
物語は1989年、ドイツでベルリンの壁が崩れた直後、カナダ・モントリオールではじまる。自らのルーツを知らないエメ(栗田桃子)は子どもを授かるが、脳に悪性腫瘍ができていることが発覚。堕胎して放射線治療を受けるか、治療を諦めて出産するかの選択を迫られたエメは、出産を決意する。
こうして産まれた娘・ルー(瀧本美織)は自分が望まれた命ではなかったことに負い目を感じており、黒い服ばかりを着て誰にも心を開くことなく生きていた。
そんな彼女のもとに、フランスの古生物学者ダグラス(成河)が訪ねてくる。彼はナチスの収容所で命を落としたという女性の頭蓋骨を父親から受け継いでおり、その女性のルーツを探ることを託されていた。なんと、その頭蓋骨とエメの脳内にあった骨の塊とは同一人物のものであることが判明したと言うのだ。
ダグラスに説得されたルーは手始めに、母エメを捨てた祖母リュス(麻実れい)に会いにいく。さらに舞台はカナダからフランスへ。こうして始まったルーツを探る旅は、19世紀後半、普仏戦争の時代にまでさかのぼる。8世代にわたる壮大なる叙事詩が紡がれていく。
いつしか、観客である私たちも一緒にルーツを探る旅をしているような気分になる。物語は8世代を行ったり来たりしながら進んでいき、各世代でいったい何が起こったのかが少しずつ明らかになっていく。まるでパズルのピースが少しずつ埋まっていくような感覚で、「ここはどうなのだろう? もっと知りたい!」と物語世界に引き込まれていくのだ。
父子の確執、近親相姦、アルコール中毒、暴力、殺人…各世代で起こる悲劇はどれも閉じられた個人のもののように思える。だが、その背景には必ず時代に対する絶望がある。19世紀末、資本主義社会の元ですすむ帝国主義への絶望にはじまり、史上初の総力戦といわれた第一次世界大戦の大量殺戮、そして第二次世界大戦におけるナチスの虐殺への絶望。
つまり、この作品はある家族の個人史であると同時に壮大なる歴史ドラマでもある。人は誰しも歴史とつながっている、歴史に規定された人生しか生きることはできないという厳然とした事実を突き付ける。
作者のワジディ・ムワワドはレバノンに生まれて内戦を経験し、その後フランスへの亡命、カナダへの移住を経て、現在はフランスで劇作家として活動している。この作品は欧米の「戦争の世紀」を俯瞰した物語でもあるが、こうした経歴を持つ作者の冷めた目線も感じられる気がする。
どの悲劇も、この家族をバッサリと終わらせてもおかしくないほどに陰惨だ。だが、それでもルーは今この時代に生きている、という奇跡にハッとさせられる。
やさぐれていたルーの心が少しずつほぐれていくさまと、それを見守り続けるダグラスの温かいまなざしはこの作品の中の一筋の希望だ。
キーワードの一つは「約束」という言葉である。破られ続ける約束。だが、最後にダグラスはルーに対して「僕は約束を守る」と誓う。この誓いに、未来に向けての願いが託されているように感じられる。
達者なキャストがそろい、ルーとダグラス以外はまったくタイプの異なる複数のキャラクターとして登場してくるのに目を見張る。図らずもこの演じ分け、どんな人だって善人にも極悪人にも、あるいは心優しき人にも冷徹な人にもなりえるということを暗示しているかのようだ。
最後にルーが身にまとうコートの赤と、降り注ぐ吹雪の赤は、このシリーズのテーマである「血」を象徴しているのだろうか。流され続ける血、それでも連綿と受け継がれていく血。
それは、私たち一人ひとりの命も同じではないか。自分の命もまた奇跡の積み重ねによって、細い糸でつながってここにあるものなのかもしれない。ふと、そんなことを考えさせられた。