広陵が広島商を倒して代表に。大正時代から続くライバル関係とは
高校野球の広島大会決勝は、2年続けて広陵と広島商の組み合わせとなり、昨年に続いて広陵がこのライバル対決を制した。過去、両校が広島大会の決勝で激突したのは12回。初対決からは広島商が4連勝していたが、これで6勝6敗の五分となった(1県1校時代以前の代表決定戦、コロナ禍での独自大会も含む)。
春夏の甲子園で通算78勝48敗の広陵に対し、広島商は63勝37敗。勝ち星では広陵がリードしている。これが優勝回数となると広島商が夏6回、春1回。広陵は春の優勝が3回と、こちらは広島商が水をあけている。ことに広陵は、夏の決勝に4回進みながら4連敗だ。
創部は、広島商が12年早い1899年。広陵中が初めて出場した1916年夏の山陽大会では準決勝で対戦し、広陵中が敗れた。スコアはなんと12対0。翌年は決勝で対戦し、5対0で広島商。22年の決勝も11対0、広島商。23年、広陵は念願の全国大会初出場(鳴尾球場)を果たすが、このときの山陽大会では、広島商と対戦していない。
熱狂的なファンが腹を切る?
24年は、広島商が準決勝で1対0で勝ち、この年に完成した甲子園へ。ここで優勝して、甲子園での初代王者となる。このころから、広島市内の高校野球ファンは、広島商派と広陵派に二分されていたらしい。広島商が、日本刀の刃渡りという伝統に象徴される精神野球なら、広陵中は選手の自主性を重んじる野球。チームカラーの違いもあって、それぞれのファンの応援は、考えられないほど熱狂的だったという。たとえば25年、広陵中は選抜大会に初出場するが、その年の夏は山陽大会の決勝で、山口の柳井中に2対3で敗れた。すると、
「広陵が柳井に負けるはずはない。負けたら腹を切って死んでもええ」
と豪語していた広陵ファンが、本当に腹を切ってしまったというからおそろしい。ただこの大正末期からは、広陵中が広島商をリードしていく。26年の選抜大会で初めて全国制覇し、その夏の山陽大会では、甲子園出場はならなかったものの、広島商に初めて勝っている。スコアは11対4だった。
年号が昭和になった翌27年の広陵中は、センバツ、夏ともに準優勝。29年のセンバツでは、広島商とともに広島県からは初めてのアベック出場。広島商が1回戦で敗退したのに対し、またも準優勝を飾った。ただ広島商はその29年夏、30年夏、31年センバツと、立て続けに3回も全国制覇を果たす。広陵ファンにはこれがおもしろくない。超がつく広陵ファンの散髪屋の主人は、話のはずみで客が広島商ファンだと知ると、髪を切っている途中でも塩をまいて追い出したという。
大正から昭和、平成、令和と時代が移っても、ライバル関係は続いている。