大坂夏の陣。「打倒徳川」のクーデターに失敗した古田織部の顛末とは
企業などでは、取締役会で社長解任といったクーデターまがいのことがあろう。大坂夏の陣において、古田織部は徳川方に従っていたが、謀叛の嫌疑を掛けられ、切腹を命じられた。その顛末を確認することにしよう。
古田織部といえば、茶人として有名である。豊臣秀吉、徳川家康の茶頭を務め、徳川秀忠の茶の指南役も担当していた。大名としては、南山城・東大和に1万石を領するにすぎなかった。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣が勃発すると、織部は徳川方に与していた。その一方で、織部は豊臣方に通じており、密かに「打倒徳川」を目論んでいたというのである。
翌年4月に大坂夏の陣が勃発し、家康・秀忠父子が大坂へ向かうと、織部は秀頼を擁立して蜂起し、京都中を放火する作戦を立てた。その騒乱に乗じて、豊臣方に出陣を要請し、家康・秀忠父子を討とうとしたのである。
織部の家人の木村宗喜は、京都・大坂の博徒を語らい、放火を行わせようとした。織部の女婿の鈴木左馬介は、味方になる牢人を集めようとした。連歌師の如幻は秀頼の命により、織部の密書を携えて島津氏ら諸大名との連絡を担当したという。
ところが、豊臣方の御宿越前守が板倉勝重のもとに駆け込み、織部らの計画を暴露したのである(密告した人物は諸説あり)。勝重は警戒を強め、この件の情報提供者には褒美を与えると触れた。
その直後、怪しい男が密告により捕らえられ、宗喜が首謀者であると吐いた。宗喜は捕らえられ、拷問されたが、決して織部の名は出さなかった。その一方、首謀者のひとり左馬介が戸田八郎右衛門に討ち取られた。その際、左馬介の下僕が挟箱を落としたのである。
挟箱が勝重のもとにと届けられると、中から謀叛の計画を記した密書、一揆を促す回文が発見された。これこそが動かぬ証拠となったのである。ただちに勝重は、この件を家康・秀忠父子に報告し、織部も捕らわれの身となったのである。
慶長20年(1615)6月11日、織部は伏見(京都市伏見区)の自宅で切腹を命じられた。享年73。子たちも連座し、自害して果てたのである。織部は辞世などをいっさい残さなかった。