映画「バービー」が問われていること
世界的な大ヒット映画「バービー」が、中東で論争を惹起している。家族や性的な志向や規範についての表現は、どんな社会でも論争や反響を呼ぶが、今般の状況は極めて現代的な現象として注目すべきところが多々あるようだ。
最初に、同作の上映状況に触れておこう。当初はアメリカでの公開と同様、7月に公開される予定だったところ、同作に「同性愛」や「その他非道徳的なこと」を広めるとの批判が出たことから、封切りを8月に延期する国が多かったようだ。レバノン、クウェイト、オマーン、アルジェリア、パキスタンでは上映が禁止された一方、サウジやUAEでは15歳未満は観覧禁止の条件で上映されるようだ。エジプトでは、検閲委員会がなかなか結論を出さない中、一部の映画館が上映を開始したことで騒動になっている。「イスラームに反する」他人の言動を標的に訴訟を起こしたことも多いエジプトの弁護士業界からは、上映禁止を求める勧告や請願が出された。今後、訴訟沙汰に発展する事案も出てくるかもしれない。また、SNS上の「インフルエンサー」達が、「バービー」に対する攻撃的なキャンペーンを始めて視聴者を扇動している。
「バービー」の上映については、2023年8月15日付のレバノンの『ナハール』(キリスト教徒資本のレバノン紙)が「我々はバービーの上映禁止の理由をどのように子供たちに説明する?」と題し、映画の影響についての心理学者へのインタービューを交えた長文を掲載した。記事は、この映画は子供の世界の考えや問題だけでなく、生活の理解、男らしさ、女性問題などにも及んでいることで知られていると指摘した上で、レバノンの文化相(シーア派、所属政党はアマル)が、「道徳・信仰・レバノンで確立した諸原則に反する。性的異常、父の教えを拒む、母の役割をバカにする、結婚や家族を作ることに疑問を抱かせる」と上映禁止の理由を説明していることに触れた。一方で、記事は「バービー」の上映禁止が特定の理解の涵養、他者の受け入れや寛容に関するより深刻な問題を惹起すると指摘した上で、子供がネットで文化の混在や他の人々と交わる中で、上映禁止はばかげており、(映画の悪影響を防止するというなら)ふさわしい方法で実態を子供に啓発するべきと主張した。『ナハール』誌の取材を受けた心理学者は、「バービー」で問題視されている同性愛について、「同性愛者に対する親の立場は、視線、表情、体の動きなど、言葉以外のもので伝わる。自分の育った家庭環境に不満や疑いを持つ者にとっては、この映画が示す(家族の)形式が個人的に安全な選択肢となる。親が子供から何かを遠ざけることは一時的解決に過ぎない。人は禁じられたものに引き寄せられるもの。人々が密かに禁止事項に耽溺するよりも(同性愛者の存在を)日常化し、彼らが安心していられる社会を作る方が望ましい。親は心配とその原因を伝えるべき。男らしさと暴力を混同したアクションの方が危険」との趣旨の解説をした。
どうやら、「バービー」の上映の可否の問題はアラブやムスリムの社会の中で多様な性的志向が受入れられるかどうか、彼らの間の文化開放政策云々という矮小な問題ではなさそうだ。現実の問題として、「同性愛」という表現そのものを放送禁止用語にしている国もあるし、かなりのインテリ層でもLGBTという言葉が何を指すかを知らないなんてことも珍しくない。より重要な問題は、『ナハール』紙の記事のタイトルのように、規範や特定の理解や志向について子供に聞かれた時に親がちゃんと答えられるかという、アラブやムスリムでなくても直面するであろう本質的なことのようだ。もう一つの注目点は、エジプトでの事例のとおり「バービー」の上映禁止要求がSNS上の「インフルエンサー」達に扇動された運動になっていることだ。同作の上映禁止が、社会の多数派とは限らないものの大きな声や態度で他人の日常生活や内面に干渉しようとするより教条主義的なイスラーム主義者やイスラーム過激派だけでなく、匿名のネットの世界で暮らす一般の人々も巻き込んだ攻撃的な言辞で要求されるというのは、いかにも現代的な現象だ。SNSの利用の拡大により人々の容易に扇動・動員できるようになったが、そうした運動の矛先は時に「あらぬ方」へ向き、好ましくない結果を呼ぶこともあるということだろう。本邦でも、何かの規範や常識を独善的に振りかざし、それに反する個人や団体や振る舞いをたたいて喜ぶ「○○警察」と呼ばれた現象が問題となったが、同様のことがアラブやムスリムの間でも起きているのだ。この場合、イスラームは「○○警察」が拠り所にする規範や常識を提供するものの一つに過ぎず、別に特殊なものでも特別なものでもない。