実は家庭的な父親だった。フロイス『日本史』が明かす素顔の織田信長
昔は「男は仕事、女は家庭」という時代もあったが、今や通用しない話である。男女共働きが当たり前になり、家事や育児の分担も当たり前になった。フロイス『日本史』によると、織田信長には家庭的な一面があったというので、紹介することにしよう。
永禄12年(1569)、宣教師のフロイスとロレンソは、信長に拝謁するため岐阜城(岐阜市)を訪ねた。なお、ロレンソは外国人のような名前だが、実は日本人の修道士で、肥前白石(佐賀県白石町)の出身だった。訪問時の様子は、フロイス『日本史』に詳しく書き残されている。
信長は2人がやって来ると、来客と面会する大広間ではなく、自身の私的な居住スペースに招き入れ、歓待したといわれている。それは家族らが使う場所だったので、極めて異例だったといえる。そのスペースは整理整頓されており、掃除もきちんと行われていたので清潔だったという。信長は、かなり潔癖な性格だったようである。
2人が部屋に入ると、茶筅丸(信長の次男:のちの信雄)が茶を運んできたので、大いに驚いたという。食事に関しては、信長と茶筅丸が運んできたので、さらにビックリした。
信長は茶筅丸に食事の準備を命じ、それを茶筅丸は家臣に伝えに行った。このように、信長は子供たちに対して、日頃から家事を手伝うよう、しつけをしっかりしていた可能性がある。
とはいえ、信長自身が料理を運んだことは異例であって、奇妙丸(信長の長男:のちの信忠)と茶筅丸は非常に驚いたと伝わっている。つまり、信長が料理を運んだのは、フロイスらが特別な客だったので、例外だったといえよう。
ところで、信長には味音痴の逸話が残っている。天正元年(1573)、信長は三好家の料理人だった坪内某の作った料理を口にして、あまりのまずさに激怒し、坪内某を成敗しようとした。すると、坪内某は「もう一度チャンスをください」と懇願したので、それを許した。
後日、信長は坪内某の料理を口にして大絶賛した。もちろん、料理が美味くなったのには、当然の理由があった。坪内某は京風の料理が得意だったが、それが薄味だったので、田舎者の信長の口に合わなかった。
そこで、2回目は味を濃くしたところ、信長は美味いと感じたのである。これは、後世に成った『常山紀談』に書かれた話なので、史実ではない可能性が高い。