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甲子園100周年。「かつては川が流れていた」と名優は証言する

楊順行スポーツライター
こんなのもあります。甲子園周辺のマンホール(撮影/筆者)

 いま高校野球開催中の阪神甲子園球場は、1924年に完成し、8月1日に開場100周年を迎えた。

 もともとは、1905年に日本初の都市間高速電気鉄道・阪神電車を開通させた阪神電鉄が、武庫川の河口周辺を一大レジャーランドにする、と構想したところから始まっている。折りしも20年ころ兵庫県が、洪水対策の一環として、武庫川から分岐する枝川をせき止め、支流の申川も廃川にし、その跡地を売り出すことになる。自社の鉄道の沿線に広大な土地という絶妙な巡り合わせに、阪神電鉄が飛びついた。資金は潤沢にある。沿線人口の増加に伴い、阪神電車の乗客数は倍々ゲームで伸びるし、当時は電力会社がなく、鉄道会社が行う売電事業も絶好調だった。かくして22年6月、阪神電鉄はレジャーランド構想実現のための土地を得ることになる。

 真っ先に着手したのが、大運動場の建設だ。当時の代表取締役・三崎省三は、自らの米国留学経験から、日本でも野球やアメリカンフットボールが人気になると確信していた。事実当時、東京では学生野球が人気を博し、10年に兵庫・香櫨園で開催したシカゴ大と早稲田大の国際試合を機に、関西でも野球人気が高まっていた。15年、豊中グラウンドで中等学校優勝野球大会(いまの全国高校野球選手権大会)が始まると、これも大人気。観戦に訪れる客がグラウンドを行き来する箕面電気軌道(現阪急電鉄)の輸送力では、さばききれなくなった。そこで三崎は、現在の甲子園近くにあった鳴尾競馬場のトラック内に、収容力の高い球場を造って大会を誘致し、17年からの開催を実現した。

 それが、23年大会の準決勝である。競馬場内の鳴尾球場は収容能力3000人というふれ込みだったが、地元・兵庫の甲陽中と京都・立命館中の対戦に観客が詰めかけ、試合中のグラウンドにまであふれるという騒ぎになった。

 鳴尾競馬場内にはグラウンドが2面あったため、2試合を同時に行うことで観客を分散させ、なんとか無事におさまったが、このままでは翌年以降、どんな事故やトラブルが起きるかわからない。そもそもその23年秋には競馬法が成立し、中止されていた馬券発売が再開したから、レースが始まれば、大会の開催は現実的に困難だった。そこで阪神電鉄が手を上げ、購入したばかりの広大な土地開発は、野球場建設からスタートする。仮名を「枝川グラウンド」といった。

 着工は24年3月16日、竣工は8月1日。4カ月半という突貫工事で「甲子園大運動場」が完成するのは、第10回大会のわずか12日前だった。同年1月10日、西宮神社の十日戎に参拝した三崎が「今年は甲子の歳」という掲示を見たのが「甲子園」という名称のヒントとなったという。

 日本で初めての本格的な野球場は、まさに「大運動場」だった。外野フェンスが直線になっているのは、広い外野でフットボールもできるようにしたため。いまの高校選手権につながるサッカーやラグビーの大会も、ここで開かれている。

立ち見を入れればなんと収容8万人!

 観客席は、すべて長椅子で5万人分、立ち見を入れると8万人にものぼった。24年8月の第10回大会は、「そんな巨大な球場が、果たして満員になるのか」と危惧されたが、大会第4日に超満員の観客を迎え、かつてない数の観客を動員する大成功だった。

 翌25年からは、第1回を名古屋の山本球場で行った選抜大会も舞台を甲子園に移す。さらに周辺には、29年にはおもにラグビー場として使われる南運動場ができ、それ以降も通称100面テニスコート、大プールのほかに遊園地や動物園、さらに水族館が続々と開業する。まさに、一大レジャーランドになったわけだ。

 その後戦火を経て一帯は米軍に接収され、解除されたのは戦後12年が経過した57年11月。球場そのものも、使用はできたが、54年3月31日まで接収されていたのは意外と知られていない。

 いまも球場周辺には、建設当時をしのばせる遺構がある。たとえばかつて、甲子園駅を高架の駅にするために取り除かれた鉄橋が、駅を支える柱に転用されたのだが、それはいまも甲子園筋のガード下に健在だ。甲子園駅の東口を降り、目の前に通っているのが甲子園筋。かつての枝川を埋め立てたもので、東口のバス停をはさんで並ぶ喫茶店や居酒屋は,道路から7、8段高くなっている。それが、枝川堤防の痕跡だ。

 当時、その裏手ではのちの名優・森繁久彌が幼少期を過ごしており、「ある日枝川の水が突然止まり、そのうちに大きな野球場ができていたんだ」とのちに語っている。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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