永山絢斗さんが演じる予定だった藤原隆家は、波乱の人生を歩んでいた
来年の大河ドラマ「光る君へ」では、永山絢斗さんが藤原隆家を演じる予定だったが降板となった。ところで、隆家は波乱の人生を歩んだので、その生涯を見ることにしよう。
天元2年(979)、藤原隆家は道隆の四男として誕生した。兄の伊周は次男である。長徳元年(995)に道隆が没すると、弟の道兼が関白になったが、数日後に病没した。伊周は内覧もしくは摂政の地位を望んだが、実現しなかった。叔父の道長が内覧の宣旨を受けたのだ。
そのような事情から伊周と道長は対立しており、長徳2年(996)に花山法皇襲撃事件が起こった。伊周は、故藤原為光の娘・三の君のもとに、花山法皇は同じ屋敷に住む為光の娘・四の君のもとにそれぞれ通っていた。
伊周は花山法皇が三の君のもとに通っていると誤解し、弟の隆家に相談した。そこで、隆家は花山法皇を脅すため、従者に法皇の一行を襲わせたのである。その際、従者の放った矢が花山法皇の袖を射抜いた。
花山法皇は女性のもとに通っていたことが露見するのを恐れ、この事実を公表しなかった。しかし、噂はすぐに広がった。道長は伊周を陥れるため事件を利用し、伊周は大宰権帥に、隆家は出雲権守に左遷され、伊周の一族は連座して没落したのである。
長徳3年(997)、隆家と伊周は許されて帰京したが、隆家は眼の病に罹った。長和3年(1014)、隆家は宋の名医から治療を受けるということで、大宰権帥として赴任することになった。
寛仁3年(1019)、刀伊が壱岐、対馬を襲撃し、そのまま筑前に攻め込む事件が勃発した。刀伊とは沿海州地方に本拠を置く女真族のことで、12世紀に金、17世紀に清を建国した。
刀伊は50余艘の船で押し寄せると、壱岐守の藤原理忠を殺した。上陸した刀伊は400余人を殺害し、捕縛された人々は1000人以上になったという。大宰権帥だった隆家は、刀伊の討伐に向かった。
隆家は、警固所に大宰府の官人を派遣して防戦した。刀伊は、警固所や筥崎宮を焼き払おうとしたが、これは失敗した。官人に加えて現地の人々も参戦したので、刀伊はわずか1週間で撃退されたのである。
隆家が刀伊を追い払ったので、朝廷は恩賞を与えようとした。ところが、公家の中から応戦の命令を出す前に戦いが終結したので、恩賞の給付を疑問視する意見が出た。同年、隆家は帰京したが、十分な恩賞をもらえず、寛徳元年(1044)に病没したのである。