ソルボンヌの反乱:キャンパス封鎖 (2)フランスの大学生がデモとストライキで大学を封鎖している
4月10日午後、パリのソルボンヌ広場で大きなデモが起こった。
「学生の選別反対!」「大学は全員のもの!」と。
場所は、カルチェラタンのサンミッシェル。パンテオンから近い、ソルボンヌ大学の本キャンパスの前の広場だ。
学生も教授も職員も参加していた。
参加者は1200人から2000人だったと言う。
※この記事は「フランスの大学生がデモとストライキで大学を封鎖している(1) マクロン大統領の教育改革の何に反対か」の続きです。
人々の注目が学生に集まりだした
このことはメディア、特にテレビでニュースとなった。
そしてこの時から、大学に関係ない一般人の注目が、学生の運動に集まり始めたように感じる。「学生はなぜデモ・ストをやっているのか」という解説記事が多く出てくるようになった。
それまでは全体から見ると、フランス国鉄の長期ストライキのほうが圧倒的に大きな話題だったのだ(こちらも大胆な改革案なのだが)。
ソルボンヌ大学の動きは、フランスの象徴的なものとなる。
首都にあるシンボルは、メディアを通して全国に影響を与えやすいのは、世界共通なのだろう。
日本の安保闘争では、東京大学安田講堂がシンボルになった。筆者にとっては生まれる前の出来事だが、名前は知っている。同じ現象だと思う。
学生や若者のほうも、そのことをわかっているのだ。
ワインの産地、ボルドーから始まった反乱
大学生の動きそのものは、法律が国民議会(衆議院に相当)や上院で審議されているころから起きていた。
キャンパスを封鎖して抗議をし始めた第1号は、ボルドー第2大学だった。3月1日のことだ。ただしこの時は、いくつかの入り口を封鎖しただけだ。
ボルドーが最初とは、さすがフランス革命時のジロンド派の本拠地だ。あそこは何かとそういう機運のある土地なのだ。
初めてキャンパス全体の封鎖が起こったのは、3月6日、トゥールーズのジャン・ジョレス大学だ。集まった生徒たちが総会を開いて投票し、封鎖を決めたのだった。
ジャン・ジョレスとは、20世紀初頭にフランス社会党を創設した人物で、新聞「ヒューマニテ」の創刊者、そしてトゥールズ大学の教授だった。大学名を聞いただけで、行ったことがなくても雰囲気が想像できる。
3月22日に学生の選別を合法化する法律「ヴィダル法」が上院を通過して決定になってから、徐々に抗議行動が増えていき、デモや封鎖(キャンパスの一部・全部)は、4月の1週目と2週目に飛躍的に増えた。
現在、30強の大学で、封鎖(一部・全体)が行なわれている。
マクロン大統領の「チョコレート」発言
そしてソルボンヌ大学の本キャンパスで学生による封鎖が起きたのは、キャンパス前の広場でのデモの2日後。4月12日だった。
この封鎖の直前に、マクロン大統領は、かなりとんでもない発言をしたのだった。
大統領は、最大の民放チャンネルTF1の同日13時のニュースで、特別インタビューに答えた。
この日は「特別編成」と銘打っていた。マクロン大統領がテレビのロングインタビューに応えるのは3回目だ。
いつもどおり、まずは午後の天気予報から始まった番組は、大統領の約50分のインタビューを伝えた。
内容はフランスが抱える数々の問題ーー失業やテロ、退職者の金銭負担の問題等に対して意見・方針を述べたものだ。
大学に関しては、最後のほうで、時間そのものは短かった。しかし注目度は抜群だった。
なぜなら、大統領はこう言ったからだ。
「議論があるのは非常に良いことだが、私は言いたい、占拠されている多くの大学では、彼らは学生ではなくてプロの扇動者だ」
「学生たちは理解しなければならない。もし(4月末ごろから始まる)期末試験を受けるなら、復習しなさい。この共和国には、チョコレートの試験はない」(甘くないという意味があるだろう)
学生たちの主だった反応は「子供扱いしている」「ばかにしやがって」だった。
これが彼らの親や祖父世代、つまり50代以上の大統領の発言だったら、また印象が違ったのかもしれないが・・・。
その日の夕方のことだった。若者がサンミッシェルにあるソルボンヌの本キャンパスを占拠したのは。
当日の模様のビデオ
Macron se moque des etudiants... ils repliquent en occupant la Sorbonne!(マクロンは学生を嘲笑している・・・彼らはソルボンヌを占拠して抗議している!)
投稿:Revolution Permanente(絶えざる革命) →すごい名前だな・・・。
このビデオで、外にいる学生たちはこう合唱している。「セレクションはひどい(汚い・嫌だ)」「大学(la fac)は誰のもの? 私たちのものだ!」
中の学生たちは「ソルボンヌ、立ち上がれ!蜂起しろ!」と声を合わせて叫んでいる。
ビデオは最後に昔の写真を見せて、「68年革命の小さな再来のような雰囲気?」とも語っている。
実際に何が起きていた?
この午後、ソルボンヌの本キャンパスで何が起きていたのか。
夕方、内部の中庭広場「la Cour d’Honneur」では、ソルボンヌの学生たちが総会(Assemble generale)を開いていた。ここはテロが起きたあとオランド大統領がやってきて、フランスの悲しみを代表する形で、亡くなったソルボンヌの学生に追悼の意を表す儀式を行った場所だ。
占拠していた若者たちは、間違いなくソルボンヌの学生だったと思う。プロの扇動者なんて一人もいなかったに違いない。みんなただの学生だ。キャンパスには、通常から学生や関係者であることを証明するものがないと入れないのだ。係員が最低2人いて入り口でチェックするが、テロが起きた後1年間は警官が立っていた(今年度は係員に戻っていた)。
学生側の発表によると、この総会の目的は、学生の選別と、今の大学入学のシステムAdmission Post Bacに代わるParcoursupというシステムに反対すること、(フランス国鉄改革など)公共サービスの破壊に反対するパリ地域の闘争を組織し、学生の行動に対して強いシンボルをつくることだったという。
大学当局は、大学1年生と2年生を入場させないことにした。外にはどんどん人が増えていき、中にいて集会に参加していた学生は、外の人が入れるようになるまでソルボンヌを離れないと言った。機動隊は、入り口を押さえていて、学生が入れないようにしていた。
18時半ごろ、総会では「22時にキャンパスを出るから、外の人を中にいれろ」と満場一致で採択、大学側に要求した。しかし当局は応えず、学生たちは占拠を続けた。
そして夜、機動隊は突入して強制退去を行った。そして、キャンパスを立ち入り禁止にしてしまった。
次の日、全国ニュースになった
夜21時半すぎ、機動隊による強制退去が始まったが、警察発表によると中にいた学生は191人だった。
ただ、警官が著しい暴力をふるったという報道は見られないし、学生からも暴力によるケガ人が出たという訴えは見られない。
あくまで相対的にではあるが、それほど暴力的なものではなかったし、学生側も割とおとなしかったようだ。
投稿:Revolution Permanente
ビデオの中で「私たちの同志(仲間)を解放しろ!」「大統領、もう十分だ!(うんざりだ)」と合唱している。
このことが次の日にテレビの全国ニュースになった。
この事件が、一つの大きな契機になったと思う。このあたりから、全体の空気が少しずつ変わってきたと感じる。
封鎖はあっという間にとかれてしまったが、学生たちの「学生の行動に対して強いシンボルをつくる」という目的は、多少なりとも達成できたようだ。
それまでは、デモの情報などは筆者のFacebookには出回っていたが、大学に直接関係ない人は、知らない人が多数派だったのではないか。そしておそらくほとんどの学生は「授業がなくて休みになった」「ラッキー」くらいの気持ちだったと思う。
実を言うと筆者も、フランスでデモが起きることは全然珍しくないので「また?」くらいの気持ちだった。Facebookにばんばん入ってくる情報を見てはいたが、翌週ストラスブールの欧州議会に行く用事のために忙しく、自発的に動向を追ってはいなかった。
しかし、このころから「なんだなんだ??!!何が起きた!」と身を乗り出すようになった。
どんどん悪化する当局の圧力
次の4月16日の週は、パリ地方はもともと休暇の時期で、大学も最初からカレンダー上1週間休みだったので、何事もなく平穏にすぎていくように見えた。
ただ、キャンパスは閉鎖されたままだった。通常なら図書館のために開いているはずなのに。
しかしある日、筆者のFacebookにある投稿が出回ってきた。学生の占拠が続くソルボンヌ大学のトリビアック・キャンパスからの叫びだった。
「警官の圧力がどんどんひどくなっている。助けて!!」
この悲痛な声は、筆者の心を大きく揺さぶった。そして黒く立ち込めたような不安が襲ってきた。
続く
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