「どうする家康」武田氏の赤備えはいつはじまり、どのように継承されたのか
大河ドラマ「どうする家康」では、三方ヶ原の戦いにおける武田氏の赤備えが際立っていた。武田氏の赤備えはいつはじまり、どのように継承されたのか、考えることにしよう。
戦国時代において、軍装を統一することは常識だった。それは単に華美を追求するのではなく、敵味方の区別を付けたりするなど、一定の目的があった。武田氏の赤備えもその一つである。
そもそも赤備えのはじまりは、武田氏配下の飯富虎昌が率いた騎馬部隊だった。赤備えは、甲冑、旗指物を赤(または朱)で統一されており、戦場でも目立つ存在だった。真っ赤な軍装で身を包んだ武田の騎馬隊が攻め込んでくると、敵は恐怖したという。
永禄8年(1565)に虎昌が武田義信事件に連座して自害を命じられると、その後は弟の山県昌景が率いることになった。武田氏の赤備えはあまりに強かったので、赤備え=精鋭部隊というイメージがついた。
天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると、武田氏旧臣の中には徳川家の配下になる者が少なくなかった。そうした状況下で、徳川家康は徳川四天王の井伊直政に武田氏の赤備えを預けた。
直政も引き続き軍装を「赤備え」で統一したので、敵軍は「井伊の赤鬼」と称して恐れたという。なお、井伊家では幕末維新期に至るまで、軍装を赤備えで統一した。
赤備えと言えば、慶長19年(1614)から翌年にかけての大坂の陣で、真田信繁が率いる軍勢も赤備えを採用していた。大坂の陣を描いた屏風絵には、赤備えの真田の軍勢が鮮やかに描かれている。
信繁の鎧は緋縅(緋に染めた革や組糸を用いたもの)で、兜には白熊(ヤクの尾の毛)と鹿の角の前立が付いていた。馬は秘蔵の川原毛(朽葉を帯びた白毛で、たてがみと尾が黒く、背筋に黒い筋があるもの)で、鞍は金覆輪が用いられた。
鞍には、さらに真田家の旗印「六連銭」の紋が描かれ、紅の厚総(馬の頭や胸や尻にかける組紐)が掛けられていた。晩年の信繁は容貌が老けていたといわれているが、この姿で戦場に立つと、遠くからでも目立った。
このように武田氏の赤備えは、戦国最強の騎馬隊の代名詞となり、武田氏の滅亡後も井伊氏や真田氏に引き継がれたのである。