トントン拍子に出世した、織田信長の重臣・塙直政の呆気ない最期
会社の上層部に目を掛けられ、トントン拍子に出世する社員は決して珍しくない。塙直政は織田信長に才覚を認められ、あっという間に大出世した。直政はいかなる人物だったのか、考えることにしよう。
塙直政は生年不詳だが、尾張国の出身である。直政は織田信長の馬廻衆として仕え、多くの合戦に出陣した。桶狭間の戦いでは、敵の首を取る軍功を挙げ、のちに赤母衣衆に抜擢された。
永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を推戴して上洛すると、直政も付き従った。以降、直政の発給文書が見られるようになり、馬廻衆から丹羽長秀、明智光秀、木下(豊臣)秀吉らと肩を並べる存在となった。
天正元年(1573)、信長と義昭との関係が決裂した。その際、松井有閑とともに和睦交渉を担当したのが、直政だった。その翌年5月、直政は槇島城(京都府宇治市)に本拠を定め、山城守護に任じられたのである。
とはいえ、当時の山城は、村井貞勝が京都所司代として京都市中を、長岡藤孝(細川幽斎)が西岡(桂川以西)を治めていたので、直政が実質的に支配していたのは、南山城地域だった。
天正3年(1575)、直政は大和守護にも任じられ、隣国の河内にも威勢が及んだ。直政は知行宛行を行う権限を持たなかったが、南山城と大和の軍事統率権を有し、たちまち両国の国衆を従えたのである。
ところで、当時の信長の重臣たちは、どういう状況にあったのだろうか。柴田勝家は、越前8郡を支配していた。秀吉、光秀、佐久間信盛は、近江国内で数郡単位での支配を任されていた。
丹羽長秀は若狭と近江佐和山、滝川一益は伊勢4郡を治めていた。それぞれが知行する石高は、おおむね10~20万石と推測される。直政は南山城と大和を支配しており、それは約50万石あったという。
このように直政は、信長の家臣として重用されていたが、ついに最期のときを迎えた。当時、信長は大坂本願寺との抗争に明け暮れていた。それは、最終的に10年に及ぶものだった。
天正4年(1576)5月、直政は信長の命により、大坂本願寺を攻撃したが、呆気なく戦死したのである。もし、直政が長生きしていたならば、その後の織田政権は変わっていたかもしれない。