【深掘り「どうする家康」】強い存在感を示した、松平元康の伯父水野信元とは何者なのか
大河ドラマ「どうする家康」では、松平元康の伯父水野信元が強い存在感を示したが、いかなる人物なのか深掘りすることにしよう。
寺島進さんが演じる水野信元は、なかなかアクの強い人物として描かれている。甥の松平元康を子ども扱いするなど、なかなかふてぶてしい態度でもある。強い存在感を示している。
水野氏は尾張緒川城(愛知県東浦町)に本拠を定め、やがて三河刈谷城(同刈谷市)を築き、勢力圏を広げていった。水野信元は忠政の子として誕生したが、生年は不詳である。異母妹には、松平元康の母・於大の方がいた。
忠政は、元康の父・広忠とともに今川氏に与していた。娘の於大の方を広忠に嫁がせたのは、関係をより強固なものにするための政略結婚だった。そして、広忠と於大の方の間に誕生したのが元康である。
天文12年(1543)、忠政が亡くなったので、子の信元が家督を継いだ。ところが、あろうことか信元は今川方を離れ、織田方に寝返ったのである。困ったのは、於大の方を妻として迎えた広忠である。
広忠は今川方に留まったので、信元との関係を解消すべく、於大の方と離縁せざるを得なくなった。以後、松平氏と水野氏は、敵味方として戦うことになったのであるが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元が敗死して状況が一変した。
義元の死により、今川氏が滅亡したわけではないが、後継者の氏真は多事に奔走せねばならなかった。越後の上杉謙信が関東出兵を目論んだので、氏真は同盟の関係から、北条氏、武田氏と対処する必要があった。
一方、氏真は三河の国衆に所領を安堵するなどしていたが、どうしても対応が手薄にならざるを得なかった。家臣の離反もあった。元康は今後の方針について、今川方に付くか、織田方に付くかの重要な決断を迫られていた。
そこに姿をあらわしたのが伯父の信元だった。信元にすれば、義元の亡き後、元康が味方になると心強いと考えたのだろう。元康は信元の仲介により、織田方に与することになった。こうして、永禄5年(1562)に締結したのが清須同盟である。
その後、信元は元康の良き相談相手になり、たびたび助言を行った。信元の弟の忠重らは、家康の配下に加わった。ドラマでの信元はやたらと威張り散らしていたが、実際は自身も生き残るため、元康を織田方に引き込んだということになろう。