「亡き主人が残した馬の子供達を持ち続ける」女性オーナーの、愛と競馬の物語
半世紀前に結婚
「もう50年以上前の話ですから……」
1949年1月生まれだから現在75歳の鶴見芳子さん。矍鑠とした態度で、半世紀以上前の記憶を手繰り寄せた。
彼女が日野自動車に就職したのが71年。先輩にその人“鶴見清”氏がいた。
「部署が違ったし、清さんは私が入って何カ月かで退社したので、ほぼ入れ違いでした」
それでも一緒に食事をする機会があった。
「2人で、というわけではなく何人かで一緒に行きました。お酒が好きで、寡黙な人でした」
清氏の友達に勧められ、交際を始めると、74年に結婚。この時から現在の鶴見姓となった。
「ゴルフによく連れて行ってくれました。私は下手だったので、ストレスを感じていたと思うけど、1度も文句を言われた事はありませんでした」
文句を言われた事がないのは、実生活でも同様だった。
結婚後、清氏は会社を立ち上げるのだが、結婚前のお付き合いをしている頃は、かなり切り詰めて生活をしていた事を、芳子さんは後に知人から聞いて知る事になる。そんな時でも清氏は芳子さんに対し、何一つ不満をもらした事はなかったのだ。
そんな清氏が、起業後に夢を語った事があった。
「『リタイアしたら馬主になる』と言っていました。それくらい競馬が好きな人でした」
そんな思いが通じたか、ある日、ゴルフのコンペで当時現役の調教師だった大久保洋吉と知り合う機会に恵まれた。
「大久保先生には『馬主になったあかつきには預かりますよ』と言っていただいたそうです」
2人の人生が変わった日
そんな鶴見夫妻の人生が大きく変わる出来事が2009年に起きた。
「清さんの病気が発覚しました。判明した時には『待ったなしの状態』と言われました。覚悟していたのか、本人は大きな動揺を見せなかったけど、私はショックでした」
そう診断されて、清氏が真っ先にとった行動があった。
「『待っている時間はない』と、すぐに馬主免許の申請をしました」
翌10年、免許を取得すると大久保と共にブリーズアップセールを訪れ、牝馬を購入。その仔に”清”の名を英訳した“ピュア”を冠として、ピュアプレジャーと名付けた。
「時間的な余裕はなかったので、ピュアプレジャーがデビューするのを何とか見せてあげたいという気持ちでした」
そんな不安を他所に、清氏は元気だった。7月、ついに愛馬が吉田豊を背にデビューした。5戦して1度も掲示板にはのれなかったが、競馬場は勿論、美浦トレセンまで夫婦で応援に行く等、馬主ライフを楽しんだ。
「最後は『早目に上げてあげよう』という大久保先生の助言もあって、繁殖入りさせ、初年度は主人が好きだったダイワメジャーの種を付けました」
翌12年には2世代目の愛馬ピュアソルジャーがデビューした。こちらも大久保洋吉厩舎。吉田豊を背に2戦目で待望の初勝利を挙げた。
「初勝利は新潟でしたけど、主人と見に行っていました」
同馬は翌13年の春、新緑賞で2勝目を挙げると日本ダービー(GⅠ)にエントリー。結果、除外になったが、同じ週に京都の白百合Sに出走すると、武豊に乗ってもらえた。
「主人は治療中だったので、京都へは私が1人で行きました」
ちなみにこの約2カ月前にはピュアプレジャーに初仔となる牡馬が生まれていた。牧場からその報告を受けた清氏は、牧場主に対し、言った。
「息子を頼みます」
これを聞いた芳子さんは思った。
「デビューするのは早くても2年先。本人はそこまでもたないと覚悟していたのでしょう」
同年7月になると3世代目の持ち馬であるペガサスジュニアがデビューした。当然、大久保洋吉と吉田豊とのトロイカ体制。デビュー3戦目となる8月の新潟で未勝利を脱出した。
「治療が続いていた主人の代わりに競馬場へ行きました」
勝って嬉しい気持ちで病院に戻った芳子さんを待っていたのは、厳しい現実だった。
「看護師さんから『大分悪い状態なので、気持ちの整理をしておいてください』と言われました」
お別れの時
この時、清氏にはオーナーズグループで所有するデビュー前の2歳馬がいた。芳子さんが述懐する。
「抽せんで当たったのがタニノギムレットの仔でした。お酒好きの主人は『ギムレットはお酒のカクテルの名前だから、良いのが当たった』と言っていました。ピュアプレジャーの子供のデビューはまだ先なので、せめてこの子の新馬戦だけは見させてあげたいと願いました」
GⅠを勝つシーンを願ったわけではなかった。それどころか1着になる場面を見させたいと思ったわけでもなかった。しかし、競馬の神様は冷たかった。「せめてデビューだけを……」という小さな願いすら叶えてくれなかった。13年10月30日、清氏は芳子さんを残し、逝ってしまった。67歳だった。
「病院の方からは『大体の人は、最期が近付くと奥様に当たるようになるから何を言われても腹を立てないでいてください』と言われていたのですが、主人は最後まで私に対し愚痴1つ言いませんでした。お葬式に来てくださった大久保先生からも『何1つ口出しをしないオーナーだったので、こちらが考えた通りに使わせてもらえました。ありがたかったです』と言っていただけました」
看護師からも同様の言葉をかけられた。それでも芳子さんには後悔の念があったと言う。
「通院時は常に付き添って一緒に行く等、やれる限りの事はやったつもりでした。でも、いざ亡くなると、何かもっと出来たのではないか?と後悔ばかりでした」
そんな悔いる気持ちを幾らか楽にしてくれた出来事があった。
「主人は『やりたい事は全てやったから思い残す事はない』と看護師さんに言っていたそうです」
救われた気がした。そして、同時に思う事があった。
「病気が発覚した後、5年も頑張れたのは、馬がいたからだと感じました。だから棺には愛馬達の写真を沢山入れました。そして、生前にかわした『馬達は私が面倒を見る』という約束は、何があっても守っていこうと誓いました」
故人の遺志を継ぐも勝てない日々
清氏が残したピュアソルジャーとペガサスジュニアは共にその後、1勝を加えた。
また、共同で所有したタニノギムレット産駒の牡馬はメドウラークと名付けられると、14年2月にデビュー。18年には七夕賞(GⅢ)を優勝すると、その後、入障し、19年に阪神ジャンプS(J・GⅢ)を制覇。平地と障害の両方で重賞を勝ってみせた。
「阪神で障害の重賞を勝った時も競馬場へ行っていたので、馬主代表として表彰台に上がらせていただきました」
15年にはピュアプレジャーの第1子であり、清氏の“息子”が2歳となり、デビューを間近に控えていた。しかし、この時点で芳子さんはまだ馬主免許の申請が通っていなかった。仕方なく、クラブ法人である株式会社ローレルクラブにこの仔を託した。すると……。
「私に命名を任せてもらえたので“ピュアミライ”を提案しました。ローレルクラブでは通常“ローレル”の冠が付くから断られるかと思ったのですが、担当の方が凄く良い人で『それで行きましょう!!』と了承してくださいました」
こうして清氏の遺志と“ピュア”の冠を継承し、息子はピュアミライという名で競走馬になった。
「主人は少ない持ち馬ながら次々と勝ったので、期待したのですが、うまく行きませんでした」
3戦したがいずれも2桁着順だった。次の仔はハーツクライを付けたが流産に終わると、再度、ハーツクライを付け、今度は牝馬が生まれた。
「この仔の時には正式に馬主免許を取得出来たので、ピュアココロと名付けたのですが、JRAで7戦して勝てず、最後はホッカイドウ競馬へ移籍しました」
その後もピュアプレジャーの子供を持ち続けた。ピュアヒカリ、ピュアカガヤキ、ピュアハルカ。いずれもJRAでは未勝利に終わった。
「思うように勝てず、競馬の厳しさを知りました。でも『絶対に馬は走らせ続けます』と主人と約束をしていたので、やめようと思った事は1度もありませんでした」
負け続けても競馬場へは可能な限り足を運んだ。
「お陰でJRAの全10場に行けました。勝てなくても競馬は楽しいと感じました」
8年目での初勝利
そんな気持ちでいると“冷たい”と思われた競馬の神様が、ついに微笑んでくれる日が来た。ピュアプレジャーの6番目の子供であるピュアキアンが23年の9月、吉田豊を乗せて新馬勝ちをしたのだ。
「1番仔がデビューしてから8年目でやっと初めての勝利でした。愛馬が出走する時はほぼ欠かさず競馬場へ応援に行っていたので、その都度、送迎をしてくれた(清氏の)会社の皆から『よく我慢しましたね』と言われました。ただ、私は主人との約束を遂行しながら自分も楽しませてもらっているだけなので、辛いとかそういう感情はなかったです。また、毎回付き合って応援してくださった皆様には、感謝しかありませんでした」
ピュアキアンは今年の3月に2勝目をマークすると、4月には京都のユニコーンS(GⅢ)、8月には新潟のレパードS(GⅢ)に出走。いずれも現地へ応援に駆けつけると、後者では3着馬と僅か0秒5差の6着に善戦。11月には自己条件に戻って走ると、23日の東京競馬場で長い直線を粘りに粘って逃げ切り。これが通算3勝目で、ついに準オープン入りを果たした。
「吉田豊さんに乗ってもらい、すでに引退されている大久保先生も駆けつけてくださいました。私は未だに馬券の買い方すらよく分からないけど、競馬というか、馬がいるのは現在の私の生き甲斐になっています」
大井の森下淳平厩舎に預けていたピュアオーシャンが出走する際も、ただの1度も欠かさず現地観戦したと言うから“生き甲斐”という言葉はあながち大袈裟ではないようだ。
芳子さんは兄弟も子供もいないため、清氏が残した都内のマンションの20階に一人暮らしをしている。近くでは年に1度、大きな花火大会があり、清氏がご存命の頃は、友人を呼び、皆でお酒を飲みながら花火を眺めたそうだ。
「ただ、主人の晩年、2~3年はあえてお友達には声をかけず、2人きりで花火を見ました。たまにそんな事を思い出すけど、主人が馬を残してくれたお陰で淋しくはありません。良い人生を歩めています」
芳子さんには2つの目標がある。1つは土曜日のメインレースに愛馬を送り込み、現在は解説者となった大久保洋吉氏に解説をしてもらう事。そして、もう1つは、勝った時に提供される馬のぬいぐるみを清氏に持ち帰る事だ。
「ぬいぐるみはペガサスジュニアで勝った時のが1つ、ピュアキアンのが3つあります。1世代に1頭しか持たないので、これを増やすのは簡単ではないですけど、応援してくださる皆さんや、主人のためにももっと増やせたら良いなって思っています」
明るくそう語る芳子さんは、最後に次のように続けた。
「本当に優しい主人でした。生きていればまだ78歳。もう少しだけ一緒に競馬を楽しみたかったです」
大丈夫。一所懸命に約束を果たす芳子さんの姿と、愛馬達の走りを、ご主人は空の上からきっと見ている事だろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)