はじめての【ひとり温泉】≪肩や背中のコリがとれ、顔の肌色がワントーンアップする≫旅館での過ごし方
茹でたての卵のような匂いがふんわりと漂ってきた。
共同浴場は木造りの湯小屋で、温泉成分によってところどころ木が朽ちている。
「がらがら~っ」と重たい引き戸を開けると、湯口からお湯がしたたり落ちる音が聞こえた。
「ちゃぽん、ちゃぽん」
天井の湯気抜きの窓から一筋の光が射し込み、お湯を照らす。湯の面がきらきらとしている。
湯船から桶でお湯をすくい、身体にかける。
「ざばざば~~~」
身体を沈める。
「ざぶ~~~ん」
「ぽちょん、ぽちょん」
軽い音から重たい音まで、お湯がお湯に当たる音色の大合唱。奏でる音は耳に心地良く、温もりすら感じるのは、湯小屋の音響効果だろう。
湯けむりの蒸気もあいまって、音がまあるく聞こえてくる。
目をつむりお湯の音のハーモニーに聞き入る。
湯気が頬をなで、ほっぺたがじんわりと温まる。
徐々に徐々に、身体も心も緩んでくる。
浴衣を羽織り、宿に戻る。
部屋にベッドがあればそのままダイブ。あるいは、畳にごろん。大の字になって、伸びる。「う~~~ん」。
座布団をうずたかく積み上げて枕にして、文庫を広げると手に持つ本の重みも手伝って、2~3ページめくる間もなく、眠りに落ちる。
目覚めたら、今度は宿のお風呂へ。
お湯と読書と睡眠を、だらだらと繰り返すこと数時間、全身から力が抜けきる。
しばし、解脱(げだつ)――。
旅館で夕食の席につくと、まずメニューを確認。宿の料理は品数が多いため、最後までたどり着けるか、配分を考えて、お刺身は食べるが、煮物は控えてメインの肉に備えようなどなど、まずはお腹との相談。
しかしである。
テーブルに並べられるとしっかりと完食してしまうのが常で、残食を出さない姿勢は「自然環境には優しいゾ」と、我を褒め称える。
夕食をたんとほおばり、お腹ははちきれそうである、浴衣の紐を緩めて、部屋に戻る。
満腹感と湯疲れと、足の爪先までよく温まったぽかぽかさで深い眠りへと入っていく。
翌朝、やや熱めのお湯に入り、身体をシャキッとさせる。
あれ、身体が軽い。肩のコリがない。顔の肌色がワントーン明るい。
2日目からは読書が進む。静かな客室で好きなだけ読む。気分転換にお風呂に入り、たまにうたた寝し、そしてまた読書。本が繰り広げてくれる世界へ入り、しばし浸る。
至福以外のなにものでもない。
※※※
私は2012年に『ひとり温泉の愉しみ』(光文社新書)を刊行している。
そもそも10年以上前にひとり温泉というテーマで上梓したきっかけは、私自身の個人的な趣向というよりも、出版業界の情勢によるところが大きかった。
かつては取材と言えばカメラマンや編集者と私というチームで行われたものだが、2000年代の半ばを過ぎると、取材経費削減の波が押し寄せた。カラーの写真付きの雑誌の仕事も、私が三脚を持ち歩き、自らの入浴写真を撮影するようになり、1人で2役、3役をこなす旅が始まった。
よってひとり温泉を始めた当初は、負担を減らすような旅を考えてばかりいた。
動きやすいように荷物は少なく、身軽に。人に頼めることは頼んでしまう。すると、ひとりで旅する気軽さや気ままさを知っていくことにもなった。
※この記事は2024年9月6日に発売された自著『ひとり温泉 おいしいごはん』(河出文庫)「プロローグ」から抜粋し転載しています。