吉井理人新監督の千葉ロッテは首位!! 落合博満が語る「監督として一番に考えなければならないこと」
日本の野球界には、「名選手、名監督にあらず」という格言がある。これは、赤バットで「打撃の神様」と呼ばれた巨人の川上哲治に対して、青バットで人気だった大下 弘(東急-西鉄)が、1968年に東映(現・北海道日本ハム)で監督に就任したものの、1年目のシーズン半ばに成績不振で休養してしまったことから言われ始めたという。
同じように、巨人のスーパースターだった長嶋茂雄と王 貞治も、初めて就いた監督業では思い通りの戦績を挙げることができなかった。そして、現代では中日の立浪和義監督、昨年までゼネラル・マネージャーも兼任していた東北楽天の石井一久監督らが、苦しい戦いを強いられている。
現役時代にスターだった監督に共通するのは、自身は心技に優れていたため、ファームで苦しみ、もがいた経験がないこと。ゆえに、着実に成長できない若手は努力が足りないと映ったり、彼らにどう手を差し伸べるかがわからないという。そうした歴史や現状も踏まえ、落合博満は監督時代にこう語った。
「私が監督として、ある程度の成績を残せた理由のひとつは、現役時代にどん底と頂点の両方を経験したから。ロッテへ入団して2年間は一軍とファームを行ったり来たりするような選手だったし、のちに三冠王を3回も獲ることができた。だから、できなくてもがく選手の気持ちもわかるし、チームの中心を担う選手の心情も理解できる。それがよかったのかもしれないね」
現役時代の自分が嫌だったことは指導者になってもしない
そして、落合が「指導者が決して忘れてはならないこと」と前置きして言ったのは、自分がどんな選手だったかということだ。監督やコーチに就くような人でも、現役時代は何事にも完璧だったわけではない。守備は一級品だったものの打撃面は今ひとつだった人もいるだろうし、マウンドで気弱な面を覗かせる投手だった人もいるだろう。
例えば、打撃面で目立つことの少なかった指導者が、凡退した選手に「なんであんなボールも打てないんだ」と言えば、言われた選手は「すみません」と返しつつも、心の中で「おまえには言われたくないよ」と呟くだろう。
あるいは、現役時代は門限破りなどやんちゃだった監督が、「門限くらい守れないのか」と選手を諭しても説得力には乏しい。若くして指導者になれば、自分の現役時代を知る後輩がチームに残っていることもあるわけで、指導者としての言動や振る舞いに変化することは必要だが、現役時代の自分を隠したり、自分ができなかったことをできたように語るのも選手から信頼をなくす要素となる。
落合で言えば、「自分が嫌だったことは、指導者になってもやらないほうがいい」と、高校時代から好まなかった体育系独特の鉄拳制裁を徹底的に排除。
また、選手として実感した「守備は、プロの指導者から教わった者勝ち。一方で、打撃は自分の感性で理想とする形をイメージし、それを実践している選手から盗む」という考え方も折に触れて選手に伝える。さらに、「現役時代に目立つ実績を残したからって、野球に関して何でも知っているわけではない。ユニフォームを着るからには、常に勉強しなければいけない」と、野球に役立ちそうなことは積極的に吸収していた。
実は、プロで監督に就くような人でも、自身の現役時代から時間が止まっている人は少なくないという。ゆえに、どんな分野でも変化がスピーディになったと言われる現代では、なおさら学ぶ姿勢が大切になる。監督として成功するためには「導く、教える」という意識よりも、「寄り添う、学ぶ」姿勢が必須なのかもしれない。
今シーズン、そうした色を醸し出しているのが、千葉ロッテの吉井理人監督ではないか。現役時代は先発もリリーフもこなし、セ・パ両リーグのみならずメジャー・リーグのマウンドにも立った。
さらに、「現役時代は、コーチなんて嫌な職業だと思っていた」と振り返るが、現役を退いてコーチに就くと、筑波大大学院で学び、類稀なポテンシャルを備える佐々木朗希を的確なアドバイスで着実に進化させてきた。監督業は、コーチとはまったく違うものと多くの経験者は語るが、今季から千葉ロッテを率いると地に足の着いた戦いを続けている。
自分はどんな選手だったのかを振り返り、得意分野はさらに究め、不得意な要素はコーチの助けを借りながら学ぶ。きっと、そんな指揮官の姿勢を選手たちも見ているからこそ、チームは勝ちながら成熟していくのだろう。