【光る君へ】定子が髪を切ったことを知り、引き籠もりになった清少納言の心境とは
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、定子が髪を切ったことを知り、大いに落胆する清少納言の姿が描かれていた。清少納言の状況や心境は、どうだったのだろうか。彼女の随筆『枕草子』によって、その辺りを考えることにしよう。
長徳2年(996)1月、藤原伊周・隆家兄弟が花山法皇の一行を待ち伏せした際、従者が矢を放った。その矢は花山法皇の衣の袖を射抜いたので大問題となり、一条天皇は伊周・隆家兄弟に厳罰を科そうと考えた。その結果、一条天皇は伊周・隆家兄弟を地方に左遷することにしたのである。
同年4月、定子は2人の処分を耳にして、激しく動揺した。一方、伊周は処分が決まったにもかかわらず、重病と称して隠れるありさまだった。これまで伊周は内大臣として活躍していたので、大宰権帥として九州に赴くことは、どうしても避けたかったのだろう。悪あがきである。
そのような事情もあり、同年5月、一条天皇は検非違使に伊周の邸宅の探索を命じた。検非違使の配下の放免は、定子の寝室すらも探索し、壁や天井までもはがすなど、かなり荒っぽい方法で伊周を探した。あまりのことにショックを受けた定子は、発作的に髪を切ったのである。
ショックを受けたのは定子だけでなく、仕えていた清少納言も同じだった。伊周・隆家兄弟の事件後、定子は小二条殿にいたと『枕草子』には書かれているが、実はこの時期の清少納言は宮仕えを辞め、実家に戻っていた。これまでの清少納言は定子に仕えることに誇りを持ち、楽しんですらいた。いかなる心境の変化があったのか。
そんな清少納言のもとを訪れたのが、源経房である。経房は清少納言に対して、出仕を促したが、それは女房の意向を汲んだものだった。女房は清少納言が休んでいたので、非難していたのである。しかし、清少納言にも言い分があり、同僚の女房から嫌がらせを受けているという事情があった。
清少納言は、道長派でもあった。道長は内覧となって主導権を握り、伊周・隆家兄弟は没落した。周囲から道長派と目された清少納言は、同僚からの目もあって、とても定子に仕える気が起きなかった。いわば、職場における仲間外れである。
その後、清少納言のもとに定子からの手紙が届いた。清少納言は同僚の女房たちの悪口などに気が滅入って里居し、再出仕に踏み切れなかったが、定子からの手紙に心を動かされて復帰したのである。