「サッカーで食うため」海を渡ったサムライ 将来はタイと熊本の架け橋に
「サッカーで食っていきたい」との一心で、日本から海を渡ったプロサッカー選手がいる。タイプロサッカー3部のチャムチュリーユナイテッドに所属する、DF樋口大輝さん(33)=熊本県出身。タイプロサッカー、そして熊本地震の経験から、「タイと熊本の架け橋になりたい」と語る。
外国人選手はあくまで“助っ人”
7月18日の午後。バンコク市内のチュラロンコン大学スタジアムには、入念にストレッチする樋口さんの姿があった。チームメイトらが近づき、次々と話しかけてくる。それに対し樋口さんは、身振りを交え、流ちょうなタイ語で応じる。何を話していたのか尋ねると、「取材の冷やかしとか、サッカーに関する質問とかです」とはにかんだ。すっかりチームに溶け込み、かつ頼りにされていることが伝わってくる。
樋口さんは、熊本県八代市生まれ。JFLのガイナーレ鳥取、佐川印刷京都SC(いずれも当時)を渡り歩いた後、鳥取で監督だったヴィタヤ・ラオハクル氏からタイに誘われた。自分がタイでプレーをすることなど、想像したこともなかったが、不安は一切なかった。「サッカーで食っていける」。即決し、タイへ渡った。
2011年から13年にかけ、1部に相当するタイ・プレミアリーグのチョンブリーFC、ウオチョン・ユナイテッドFC(2013年よりソンクラー・ユナイテッドFCに改称)に在籍した。しかしながら、自分が“外国人助っ人”であると理解していなかったことなどから、やる気だけが空回り。満足のいくパフォーマンスは出せなかった。
その後、3部のタイ・ホンダFCへ移籍した。クラブが掲げた目標は「2年でタイ・プレミアリーグへ」。ここまで明確な目標を聞かされたのは、タイに来て初めてだった。樋口さんは主力として活躍。時にはキャプテンマークを巻いてピッチに立つこともあった。加入1年目の2014年シーズン、チームは見事リーグ優勝し、2部へ昇格した。
地震で故郷への思いを強くする
タイ・ホンダFC3年目の4月。故郷を熊本地震が襲った。発生直後、両親を心配し、すぐに帰国を検討した。しかし、当時、九州内の交通網は寸断。泣く泣く帰国を諦めた。「何かしなければ」との一心で、当時所属していたタイ・ホンダFCのチームメイトらと募金活動にあたり、義援金として熊本県に贈った。
当時を「地元の両親が心配だったこともあり、気持ちがあまりコントロールできていなかった。あまり記憶がない」と振り返る。しかし、この経験が、故郷への思いを強くした。漠然とではあるが、将来は「タイと熊本を繋ぐ仕事ができれば」と考えるようになった。
3年目のシーズンの後半、樋口さんの出場機会は徐々に減少。後半途中から投入されることが増えていった。タイでは、一度に出場できる外国人は4人。攻撃的な選手が加入したことで、外国人枠から押し出された。「自分はチームに貢献できる」と思ってはいたが、出場選手を決めるのは監督。出場できない現実に、自らを納得させようとしたが、悔しくて眠れない日もあった。
その年、チームは2部優勝。タイ・プレミアリーグへの昇格を決めた。しかし、国王の死去に伴う自粛措置で、リーグ戦残りの2試合が中止。目標であった昇格は果たしたものの最後は不完全燃焼で2016年シーズンを終えた。
タイ・ホンダFCとの契約期間は3年だった。入団当初は、契約満了後、引退するつもりだった。しかし、選手として燃え尽きることができなかった。「もう1年。やり切ろう」。そう考え、3部のチャムチュリーユナイテッドに入団した。
タイと熊本の架け橋に
チャムチュリーユナイテッドは、チュラロンコン大学(タイの東大と呼ばれる大学)が母体のクラブ。選手の大半は学生だった。彼らのポテンシャルの高さに驚かされた一方で、持っている能力の半分程度しか出せていないと感じた。そんな彼らの成長に少しでも貢献したい。そう思うとともに、指導者への興味も湧いてきた。
樋口さんは現在、選手として活動する一方で、運動能力開発、ジュニア育成について学習。タイでのスクール事業で開を模索している。近い将来、故郷でも事業を展開するつもりだ。両国の交流拠点となり、架け橋となる。それが「自分にしかできないことであり、自分の使命」と考えている。
熊本地震から数カ月後、一度帰省した。車窓から、痛々しい姿の家屋が目に入ってきた。そのときの光景が、今も脳裏に焼き付いている。これまでの人生を振り返ると、すべてが繋がっているような気がして、不思議な感覚を覚える。しかし、これが自分の運命。新たな目標に向け、駆け抜ける。