【陸自日報】報道で語られない真の問題―イラク現地取材から読み解く
防衛省が今年4月16日と、24日に公開した、陸上自衛隊イラク派遣の約1万5000ページ以上の日報。04年3月から、06年7月までの現地の状況が報告されており、「非戦闘地域」とされたイラク南部サマワ周辺の極めて厳しい治安情勢など、自衛隊イラク派遣の知られざる実態が伝わってくる。この間、自衛隊イラク日報をめぐっては、防衛省及び安倍政権が日報を隠蔽したのではないか、という疑惑が論議されてきたが、日報の内容そのものの分析は、まだまだ不十分であろう。自衛隊イラク派遣当時、現地を取材していた筆者が、現場の目線で陸自イラク日報を読み解く。
〇最大の「脅威」、サドル派の記述
陸自イラク日報に関しては、論評すべき点がいくつもあるが、まず筆者が注目したのは、日報における、サドル派についての記述の多さだ。サドル派とは、イラクのイスラム教シーア派の有力グループの一つで、後にイラク政府に閣僚も輩出している。サドル派は、イラク戦争を米国による侵略戦争だとみなし、自衛隊を含む全ての外国の軍を追い出すべきだと主張。傘下の民兵組織「マハディ軍」は、イギリス軍やオランダ軍とは実際に戦闘も行っているなど、サマワ周辺で活動していた自衛隊にとって、サドル派は最大の脅威であった。だから、陸自イラク日報で、サドル派に関する記述が多いこと自体は、当然のことだと言えるが、問題は陸自側の情報収集の在り方だ。
陸自イラク日報を読むと、毎週金曜の礼拝でのガジ・ザルガニ師らサマワのサドル派指導者の説法の内容や、参加者人数を事細かく調べており、ザルガニ師らの写真まである。これは、礼拝の場に陸自から依頼された、いわばスパイ的役割を担うイラク人がいなければ、入手しえない情報だ。こうした陸自側の情報収集こそ、実はサドル派が陸自に対して強く憤っていた大きな要因だったのである。
〇サドル派は自衛隊の監視に不快感
筆者は、2004年7月、ザルガニ師への単独インタビューを行った。その中で、ザルガニ師は「宿営地近くのマハディ地区で住民に『サドル派武装勢力に協力しているか』と自衛隊関係者が聞いてまわっている」と憤りをあらわにしていた。その場に同席していた、マハディ地区の住民も「自衛隊は我々の村に何度も来ている。道路を封鎖したり、夜中に軍用車両で来て聞き込みをしたりするが、非常に不愉快だ」という。サドル派側は、こうした陸自の情報収集が、やはりサドル派と対立していた米軍やイギリス軍などにわたることを懸念していたのだろう。
防衛省は、当時、筆者の問い合わせに対し、ザルガニ師らの主張を否定したものの、陸自イラク日報を読んでいても、陸自が米軍等と盛んに情報交換していたことは、随所に見て取れる。開示された日報の中でスミ塗りにされている「JAM情報」とは、サドル派が擁する民兵組織マハディ軍の動向についての情報だ。かなりの頻度で日報に記載されていたJAM情報も、米軍等と共有されていたものと思われる。当時、ザルガニ師らサドル派のイラク南部の各支部の幹部らは、米軍等に逮捕拘束されたり、殺害されたりすることを警戒しており、いつどこにいるかなどの情報が自衛隊から米軍等にわたることも懸念していたのだろう。
陸自としては、サドル派の動向を知ることは、安全確保のために必要不可欠であったのだろうが、結果的に自衛隊とサドル派との相互不信を高めてしまったことは、皮肉なことだ。なお、日報によれば、自衛隊側だけではなく、サドル派側も2005年末頃から、自衛隊の活動を監視するようになったという。結局、陸自は、終始、サドル派を準テロ組織的な見方でマークし続け、両者が対話し、停戦協定を結ぶということはなかった。
〇日報に「敵」の記述
自衛隊は「イラク占領VS反占領」という対立構造にはまってしまい、イラク現地の有力な勢力であったサドル派を終始、テロ組織扱いして対話できなかった。それは、自衛隊のイラク派遣そのものが、日本国憲法の理念からすれば間違いであったことを示している。そうした自衛隊イラク派遣の本質が現れているのが、04年7月14日、同9月22日付けの日報だ。陸自が活動していたイラク南部サマワでの治安状況についての記述のタイトルは、「敵の攻撃状況」というものだった。これは、2005年以降、「細部事案等の発生状況」という言葉に置き換えられるものの、少なくとも2004年においてイラク派遣の陸自部隊は、サドル派の民兵組織マハディ軍などの現地武装勢力等を、「敵」として認識していたことがうかがい知れる。そもそも、当時の小泉政権が自衛隊イラク派遣の正当性を訴えるために使った理屈が「非戦闘地域」であるが、「敵」、つまり自衛隊の戦闘の対象となりうる存在がいるのだとすれば、「非戦闘地域」という理屈は成り立たなくなる。この「敵」という文言が日報にあったという一点だけでも、検証するに値する重大な問題であろう。
〇自衛隊イラク派遣は本当に必要だったのか?
当時、サマワを取材していた筆者の疑問は「本当に日本のイラク復興支援の在り方は、自衛隊イラク派遣以外になかったのか」ということだった。筆者のインタビューに対しザルガニ師は「本当にイラク復興のために来る民間人となら、良好な関係を作れると思う」と言っていた。筆者が「日本から来る企業やNGO、医者などを、あなた方は歓迎するのか?」と確認すると「そうだ」とザルガニ師は答えた。
当時、フランスのNGO「アクテッド」が自衛隊駐留の1000分の1のコストで8倍もの規模での給水活動をしていたことを考えれば、日本側もNGOや民間企業が活躍する余地はあったし、そのプロジェクトに日本政府が資金を提供するというやり方もあり得たのだろう。だが、最初から日本は小泉政権が米ブッシュ政権のイラク攻撃を支持し、現地の反感も考慮せず自衛隊をイラクに派遣したことで、対話もあり得た勢力を敵に回し、「米軍を中心とする有志連合VS現地抵抗勢力」という対立構図に自衛隊も組み込んでしまったことで、無用なリスクを自衛隊員に直面させることになった。
〇自衛隊員が殺されていてもおかしくなかった
その結果は、日報の中でも書かれている通りだ。2005年6月23日、サマワ郊外、サドル派や貧困層の居住域近くを移動中であった陸自の車列にIEDが火を噴いた。IEDとは、道路脇などに仕掛けられた爆弾で、強力なものは、米軍の装甲車ですら吹き飛ばす。当時、米軍などが最も被害を出していた攻撃で、自衛隊の日報の中でも繰り返しその脅威について警戒する記述があった。不幸中の幸い、陸自車両を襲ったIEDは簡素なもので威力も小さかったが、それでも日報には
「視界が遮られ、陸自車両が互いに見えないほどの土煙がたち、爆風やそれに飛ばされた石でドアがゆがんだり、ミラーが割れ落ち、車体に無数の傷がついた」
と書かれているほどだ。一歩間違えば、自衛隊員が死亡していた、極めて、重大かつ深刻なケースであるが、この事件の評価は開示された日報ではスミ塗りされていた。この他にも、迫撃砲やロケット弾など2004年4月から、2006年3月にかけて、13回もの攻撃が陸自宿営地にむけて行われている。
〇今こそ自衛隊イラク派遣の検証を
陸自のイラク派遣では、学校や道路の修復、給水活動などが行われ、それに伴うイラク人労働者の雇用など、一定の成果を生んだことも事実だろう。だが、筆者の取材においても、イラク人運転手任せの給水車が全く来ない集落があったり、学校修復の現場でも必要な資材が不足しているなど管理運営上の問題があった。また、日報でも言及されているように、電力不足など陸自には荷の重い問題も、現地住民の不満の矛先が陸自に向けられた。
派遣ありきの政治により、自衛隊がリスクに直面するという問題は、その後の南スーダンPKOにも通じている。改憲を目指す安倍政権であるが、自衛隊の地位云々を語る前に、未だその大部分が「発見されていない」とする2004年の陸自イラク日報を開示し、与野党で陸自イラク派遣の徹底的な検証を行うべきではないだろうか。マスコミもそのような視点から、さらなる追及をするべきだ。
(了)
*本記事での、日報以外の現地での写真は全て筆者の撮影。無断使用を禁じる。