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【インタビュー】シャーリー・キング/B.B.キングの血を受け継ぐ“ドーター・オブ・ザ・ブルース”

山崎智之音楽ライター
Shirley King / courtesy Cleopatra Blues

“ドーター・オブ・ザ・ブルース”。人は彼女をそう呼ぶ。シャーリー・キングは偉大なるブルースマン、“キング・オブ・ザ・ブルース”B.B.キングの愛娘だ。1949年、アーカンソー州ウェストメンフィスに生まれた彼女はシカゴでダンサーとして活動してきたが、1992年にシンガーとして『ジャンプ・スルー・マイ・キーホール』でデビュー。2020年、3作目となるアルバム『Blues For A King』を海外で発表したところである。

父親譲りのパワフルなヴォーカルをふんだんに聴くことの出来るこのアルバムだが、ブラインド・フェイスの「キャント・ファインド・マイ・ウェイ・ホーム」やトラフィックの「フィーリン・オールライト」、アーサー・クラダップ作でエルヴィス・プレスリーで知られる「ザッツ・オールライト・ママ」、レッド・ベリー作でレッド・ツェッペリンで知られる「ギャロウズ・ポール」など、ロック・ファンにもお馴染みのナンバーを歌っている。

本作に参加しているゲスト陣も豪華だ。エルヴィン・ビショップ、ロベン・フォード、スティーヴ・クロッパー、ハーヴェイ・マンデル、ジョー・ルイス・ウォーカー、パット・トラヴァースらが彼女をバックアップ、リスナーの胸を熱くしてくれる。

70歳を過ぎながら、よく笑い、元気いっぱいで話すシャーリーは新作アルバム、そして父親について語ってくれた。

<自分のやるべきことに全力を注入する。残りは周りの人がどうにかしてくれる>

●『Blues For A King』はどんな作品でしょうか?

Shirley King『Blues For A King』ジャケット(Cleopatra Blues)現在発売中
Shirley King『Blues For A King』ジャケット(Cleopatra Blues)現在発売中

ブルースだけどロックの要素もあって、両方を楽しめるアルバムよ。私自身とても気に入っているし、すべて自分の手柄にしてしまいたいけど、バックアップしてくれたミュージシャンや大勢のスタッフ、共同プロデューサーのジョン・ラッペンのおかげで最高の出来映えになった。全11曲を1ヶ月未満でレコーディングしたのよ。「無理よ。もっと時間が必要」と言ったら、「大丈夫。あなたの歌は素晴らしい。何だって歌えますよ!」とノセられたわ(笑)。父がいつも言っていたのは「とにかく自分のやるべきことに全力を注入するんだ。残りは周りの人がどうにかしてくれる」ってことだった。私はベストを尽くして歌って、ゲスト・ミュージシャン達が最高のプレイでアルバムをさらに良いものにしてくれた。

●あなた自身が選曲したのはどの曲でしたか?ゲスト・ミュージシャンで親しかった人はいますか?

基本的に“クレオパトラ・レコーズ”とジョン・ラッペンがアイディアを出してくれたのよ。やってみて良かった。自分の知っている小さな世界から連れ出されたことはスリルだったし、とてもエキサイティングだったわ。アルバムの曲はどれも大好きだけど、ブラインド・フェイスの「キャント・ファインド・マイ・ウェイ・ホーム」は本当に美しい曲ね。参加してくれたミュージシャン達は父から影響を受けて、敬意を抱いてくれる人たちだった。彼らはB.B.の娘を助けてやろうと、みんな素晴らしい演奏をしてくれた。本当に感謝しているわ。

●1998年に亡くなったジュニア・ウェルズのトラックを使った「フードゥー・マン」について教えて下さい。

私は1967年からシカゴで暮らして、ダンサーをやっていた。父もよく来て、ライヴをやっていたけど、ジュニアは彼の友達だったのよ。ジュニアとバディ・ガイはシカゴのブルース・ブラザーズだった。最高のミュージシャンでありショーマンだったわ。でも当時、私はまだブルース・サーキットにいなかったし、共演することはなかった。「Hoodoo Man」は彼の生前のトラックに私のヴォーカルを乗せたのよ。ジュニアが私の隣に立っているようで、とても気に入っている。彼のことをもっと良く知りたかったわね。

●エタ・ジェイムズの「アット・ラスト」でアルバムを締め括っていますが、エタとの思い出について教えて下さい。

私は9歳の頃に教会で歌うようになったけど、13歳のときにエタのレコードを初めて聴いて、それ以来ずっとファンだった。“B.B.キング・ブルース・フェスト”に彼女が出演すると知って(2007年)、父に「紹介して!」と頼み込んだわ。でも「エタは私のガールフレンドだったけど、もう私を楽屋にも入れてくれない。だから紹介するのは無理だよ」って(苦笑)。でも私の息子パトリックがエタと仲良くなって、それで私の誕生日に電話をしてくれたのよ。「ハロー、エタです」って電話口で言われて、思わず「ワオッ!」って叫んでしまったわ。夢みたいな気分だった。彼女はとてもスウィートな人だったわ。

●...“ガールフレンド”というと、御父上とエタ・ジェイムズは交際されていたのでしょうか...?

“ガールフレンド”と言っていたけど、交際していたのか、それとも“女友達”だったのか、判らなかったわ(笑)。父と結婚して、エタが義理の母になったら最高だったけど、そうならないうちに2人とも亡くなってしまったのが残念ね。

●2007年の“B.B.キング・ブルース・フェスト”というとB.B.、エタに加えてアル・グリーンが同行していましたが、あなたは彼と古い友達だったそうですね?

アルとは、彼が有名になる前から友達だった。同じアーカンソー州生まれで気が合って、私が住んでいたシカゴに彼が来たときは世話をしてあげたりした。それで3、4年ぐらい友達だったけど、私が別の人と結婚したのをあまり快く思わなかったみたいね。私のことを好きだったというよりも、私が家庭に入ってしまうことで友達が減ると思ったんじゃないかな。彼は素晴らしいシンガーだったし、一生の友達だと思っている。アルとは恋愛関係にはならなかった。彼は私と知り合った後にどんどん有名になっていって、いろんな女性が彼の周りにいるようになった。それは父も同じだったけどね。父は何度か結婚したけど、生涯の恋人はギターの“ルシール”だった。

●『Blues For A King』でゲスト参加して欲しかったけれど実現しなかった人はいましたか?

もちろん父、B.B.キングよ。でも彼は天国に行ってしまったし、権利関係がごたごたしていて、生前のトラックでデュエットをすることも出来なかった。次のアルバムでは権利をクリアして、父娘デュエットをレコーディングしたいわね。

Shirley King / courtesy Cleopatra Blues
Shirley King / courtesy Cleopatra Blues

<世界一の父親だった>

●『Blues For A King』は3作目のアルバムですよね?

そう、『ジャンプ・スルー・マイ・キーホール』(1992)、『Daughter Of The Blues』(1998)に続く3枚目よ。それから本も1冊書いた。『Love Is King: B. B. King’s Daughter Fights to Preserve Her Father’s Legacy』(2017)という本で、父だけについての本ではないし、私だけの本でもない。父と娘の物語よ。私は3歳の頃から父と暮らしてきた。彼が伝説の“キング・オブ・ザ・ブルース”B.B.キングになっていく過程を見てきた。シカゴでショービジネスに関わってきて、私が“B.B.キングの娘”だから近寄ってくる人も大勢いた。偉大な父親を持つことは、プレッシャーでもあったわ。でも、だからといって父を嫌いになることはなかった。彼は世界で最高のダディだった。

●プロのミュージシャンとして御父上から学んだことは?

「ギャラをもらったら、それに対してベストを尽くしなさい」と言われたことがあるわ。その助言は常に私の中にあるし、『Blues For A King』を作るときにも念頭にあった。アルバムの曲は用意されたものだったけど、それをただ歌うだけでなく、ハートのすべてを注ぎ込んで歌うようにした。もうひとつ父から学んだのは、ショービジネスは体力勝負だということだった。父はいつもツアーに出ていて、誰もその体力についていけなかった。6週間毎日ショーをやって、立っていられるのは彼だけだったわ。付いてこれたのはドクター・ジョンぐらいなものよ。

●B.B.は父親として、人として、どんな人物でしたか?

父は何があっても絶対に私を傷つけない人だったわ。いつも寛大で優しかった。いつもツアーに出ていたけど、私が夏休みだったりすると一緒にいろんな場所に行くことが出来た。でも父は寂しがり屋でもあった。子供の頃、彼は祖母に育てられて、親の愛情に飢えていたのよ。だから家族が欲しかった。父には15人の子供がいたけど、全員を平等に受け入れて、ごはんを食べさせて、学校に通わせた。決してDNA鑑定などはしなかったわ。自分に与えられなかった愛情を、子供たちに与えようとしたのよ。父は人生の哀しみについて語ることがなかった。それよりも人生の喜びを語ることに努めていた。そんな気持ちは私も同じよ。私には子供2人と孫3人がいる。彼らが幸せでいることが、私にとって一番の幸せなのよ。

●あなたはB.B.の何番目のお子さんですか?

私は3番目だった。長女はもう亡くなったし、2番目は長男で1949年3月生まれだったわ。私は同じ年の10月生まれよ。12月生まれの妹もいるけど、父は全員に同じ愛を注いだ。だから今、父の遺した財産を兄弟が争っているのは悲しくてならないわ。父は決してそれを望んでいなかった筈よ。晩年の父はアルツハイマー病を患って、歌詞や演奏を覚えていられなくなった。それでも家族のために働き続けたのよ。2008年、“B.B.キング・ミュージアム”の開館式典に全員を招いたときも、父が交通費をすべて出した。本当に世界一の父親だったと思う。

●...ご遺族の不和に関しては、私もファンとして悲しいです。

でも心の美しい子もいた。妹の1人は 2014年9月14日に亡くなってしまった。父の誕生日の2日前よ。私は彼女とは仲が良かったし、いつも思い出すわ。父にとっても、彼女を失ったことは大きな心の痛手だったと思う。その翌月に倒れて、もうライヴを行うことなく亡くなってしまったからね。彼は疲れていたし、孤独だった。生きる意志を失って、戦うことが出来なくなってしまった。それで去っていったのよ(B.B.は2015年5月14日、89歳で亡くなった)。父がやってきたことを受け継いで、私は歌い続けるわ。

●B.B.が1971年に公演を行ったことで、日本のブルースの歴史が本格的に幕を開けたといって過言ではないでしょう。新型コロナウィルスが一段落したら、ぜひ日本に歌いに来て下さい。

もちろん!父は何度も日本をツアーしてきたし、私もずっと行きたかったのよ。ファースト・アルバム『ジャンプ・スルー・マイ・キーホール』は日本でCDが出たけど、まだ行ったことがない。もし 日本に行くなら、ジョー・ルイス・ウォーカーも一緒に来て欲しいわね。父がこの世を去ったとき、彼は優しい言葉をかけてくれた。ジョーは『Blues For A King』でも素晴らしいギターを弾いているし、魂の兄弟よ。 私は毎朝起きて、外が晴れだと「ダディ、私は頑張っている。あなたに教えられたようにね」と話しかけるのよ。日本でも、天国の父が喜んでくれるようなライヴをやりたいわ。

音楽ライター

1970年、東京生まれの音楽ライター。ベルギー、オランダ、チェコスロバキア(当時)、イギリスで育つ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業後、一般企業勤務を経て、1994年に音楽ライターに。ミュージシャンを中心に1,300以上のインタビューを行い、雑誌や書籍、CDライナーノーツなどで執筆活動を行う。『ロックで学ぶ世界史』『ダークサイド・オブ・ロック』『激重轟音メタル・ディスク・ガイド』『ロック・ムービー・クロニクル』などを総監修・執筆。実用英検1級、TOEIC945点取得。

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