「大山鳴動して金1グラムも出ず」 逮捕者が出た韓国の「日本埋蔵金(金塊2トン)騒動」のその後
昨年11月5日に本欄で戦前日本人が韓国の穀倉地帯で知られる全羅北道・益山市の「大橋農場」の事務所(建築面積157.36、床面積266.45平方メートル)に隠匿したとされる金塊2トン(時価1200億ウォン相当)の埋蔵金騒動を伝えたが、騒動は「金塊が埋蔵されている」との噂を聞きつけた30代の男が11月6日に家屋に侵入し、探査していたところ警察官に現行犯逮捕されたのを最後に鎮まったようだ。警察と益山市が「実態もなく、確認もされていない」と、噂を否定したことで一件落着となった。
(参考資料:韓国に隠匿したとされる「日本埋蔵金」騒動 金塊2トン(時価1200億ウォン)は出るか!?)
騒動の事の発端は昨年春頃から「日本人農場主が所有していた農場の倉庫の地下に金塊が埋蔵されているらしい」との噂がどこからともなく出回ったことにある。
噂は噂を呼び、「その日本人は敗戦時に日本に持ち出すことができず農場倉庫の地下を6メートル掘り、そこに金塊2トンを埋めていった」「農場主だった祖父から埋蔵話を聞いた孫が金塊を探す手続きを行っている」等の尾鰭が付き、事もあろうに「親日財産」の探索と没収を行っている独立運動家及びその遺族らの団体「光復会」が乗り出し、昨年8月に益山市と文化財庁に発掘許可と事前探査許可を申請したことから「本当に金塊が埋蔵されているのでは」と噂に火が付き、地元では真剣に語り始められていた。
昨年10月に「光復会」の立ち合いの下、全羅北道と益山市が合同で現場検証した際、家屋内の階段下のコンクリート床が掘られているのを「光復会」では問題視したが、市は「荒らされた床は2019年に階段を修復した時の痕跡である」と説明し、「根拠のない噂で文化財を棄損させるわけにはいかない」として、金塊発掘の有無の確認を求める「光復会」の要望を取り合わなかった。
益山市によると、珠峴洞にある「大橋農場」の家屋は1914年に建てられ、市が2020年10月に「日本統治時代の収奪の象徴」とし4億5千万ウォンで購入し、現在は国家文化財に登録され、立ち入り禁止地域に指定されている。
「大橋農場」に関しては▲1907年に「大橋」と言う名の日本人が開拓した農場である▲「大橋」は自らの名前を付けた銀行を所有するぐらいの富豪である▲「大橋」は東裡里駅を拠点に農場を経営し、「大橋農場」はコメ蔵としては全羅道では最大規模だった▲「大橋農業」は金塊を事務所で使用していた等々の噂が飛び交っていたが、その後、調べた結果、「大橋」なる日本人が岐阜県出身の「大橋銀行」を設立した経済人、大橋與市氏であることがわかった。
大橋氏は全羅道で農場を起こす際に当時、主任だった枝吉元信氏を代理人として益山市と金堤市地域の土地を購入し、全羅北道の日本人の農場の中では屈指の農場を持っていた。また、「金塊が埋蔵されている」とされる木造2階建ての家屋は1914年に「大橋農場」の事務所として建てられ、戦後は華僑の小学校として使われていた。
大橋與市氏は「大橋農場」を1907年10月に開設し、1913年には当時99万2000平方メートル以上の土地を所有する大地主であった。「大橋農場」は1921年に株主会社(朝鮮産業)に改編されたが、役員は全員が親族、一族経営だった。また、1927年には裡里市内の宅地の大部分(13万2000平方メートル)を所有していたことから「大橋の裡里」とも呼ばれていた。「大橋農場」が収穫したコメは鉄道で隣の郡山市に運ばれ、郡山港から船で日本に輸出されていた。
なお、「人事興信録」(第8版1928年7月)のデーターベースには大橋與市氏は1866年生まれで「明治30年(1897年)獨力を以て大橋銀行を創立し、其頭取となり又朝鮮全羅北道に大橋農場を開設した」と記されていた。