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鉄道の日・ラジオがない時代の天気予報は住民のために旗や掲示板 欧州行き国際列車出発駅の新橋は掲示板で

饒村曜気象予報士
新橋駅のSL(写真:イメージマート)

鉄道の日(高波で開業前にお召列車)

 明治2年11月10日(1869年12月12日)に駐日イギリス公使・パークスの進言をいれて、鉄道建設の廟議決定(現在でいう閣議決定)が行われていますが、内容は、東京と京都を結ぶ幹線と、東京・横浜、京都・神戸、琵琶湖湖畔・敦賀の三支線の鉄道建設に取り組むというものでした。

 この決定を受け、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川と横浜間の鉄道が仮開業し、同年9月12日(10月14日)に新橋・横浜間の鉄道が開業しています(29キロを35分で結んでいました)。

 そして、新橋・横浜間の鉄道が開業した日、10月14日が「鉄道の日」となっています。

 ただ、明治天皇のお召列車は、鉄道開業の日の約1か月前に走っています。

 明治天皇は、明治のはじめの頃には全国を巡幸でまわり、江戸幕府に変わる天皇は歴史的、民族的に支配の正当性を持つ、仁恵深い君徳を備えた存在であることをアピールしています。

 この巡幸のうち、6大巡幸とよばれるのは、次の6つです。

1回目:明治5年5月23日(1872年6月28日)~7月12日(8月15日)の近畿・中国・九州地方

2回目:明治9年(1876年)6月2日~7月21日の東北地方(函館を含む)

3回目:明治11年(1878年)8月30日~11月9日の北陸・東海道地方

4回目:明治13年(1880年)6月16日~7月23日の中央道

5回目:明治14年(1881年)7月30日~10月11日の東北・北海道地方

6回目:明治18年(1885年)7月26日~8月l2日の山陽道地方

 このうち、2回目の巡幸は、明治維新のときに新政府に抵抗していた奥羽諸藩をめぐる巡幸で、国内の安定と言う意味で、待望されていました。

 そして、2回目の巡幸の帰途、明治丸に乗船され、青森から函館を経由して横浜港に無事帰着していますが、この日が「海の日」のきっかけとなったというのは、有名な話です。

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/eff143412067f867c9233b0c67d32b9b96ff7ebe

 太陰暦を廃し、太陽暦を採用するとの詔書が発せられ、太政官布告が出されたのは明治5年11月のことですから、1回目の巡行のみは太陰暦の時代ということになります。

 1回目の巡幸の帰路は海路で品川に向かっていましたが、品川湾の波が激しく着船は難しいとのことから、急遽、横浜港に入港しています。

 近くに台風があったのかもしれませんが、天気図が作成される前というより、東京で気象観測が始まる前のことですので、原因はわかりません。

 そして、明治天皇は、横浜から仮開業していた鉄道に乗り、品川に帰着しています。

 つまり、お召列車は、高波という自然現象によって鉄道の正式開業前に走ったということになります。

広がる鉄道網

 明治2年(1869年)の廟議決定(現在でいう閣議決定)に従い、新橋・横浜間の鉄道開業以後、鉄道網が広がっています。

 明治7年5月11日(1874年5月11日)に大阪・神戸間が開業し、明治10年2月5日には大阪・京都間が開業して京阪神が鉄道で結ばれています。

 そして、明治15年(1882年)3月10日に日本海側初の鉄道の駅ができたのは金ケ崎(敦賀港)で、京阪神と日本海を結びました。

 当初は、京阪神からは大津までを鉄道で、大津から長浜までを琵琶湖の船で、長浜から金ケ崎を鉄道でというルートでしたが、明治17年(1884年)4月には柳ケ瀬トンネルの完成で全線が鉄道で結ばれています。

 東海道線が全線開通したのは、明治22年(1889年)7月1日で、初めて特急列車が走ったのは明治29年(1896年)9月1日のことです。ただ、東京駅ができたのは大正3年(1914年)12月20日で、しばらくは、東京の鉄道の玄関口は新橋でした(タイトル画像)。

 敦賀港は、ウラジオストクでのシベリア鉄道起工の動きに合わせ、明治32年(1899年)7月に開港場に指定され、外国に対する日本の玄関口となります。

 明治41年(1908年)1月から敦賀港とウラジオストクを結ぶ定期航路がロシア義勇艦隊(開運会社の寄付でできた国営の船舶輸送機関)によって開設され、週2回、敦賀からヨーロッパ行き切符が発売となっています。

 そして、明治44年(1911年)3月からは東京の新橋発、敦賀・ウラジオストク経由でパリ行き等の欧亜国際列車が運行となっています。

 つまり、東京でパリ行きの一枚の切符が買えるようになったのです。

 インド洋・アフリカの希望岬をまわる海路では、東京からパリまでは約40日かかりましたが、欧亜国際列車は約17日と約3分の1でゆけることに加えて、費用が半額以下になることから評判となり、敦賀はヨーロッパへの出発地として繁栄します。

 月日は流れ、令和6年(2024年)3月16日、北陸新幹線が石川県・金沢から福井県・敦賀まで延伸となりました。明治新政府が外国との交易のために特に力を入れていた敦賀と東京間を3時間8分で結んでいます。

天気図の作成と天気予報の発表

 時代は遡ります。

 東京での気象観測は、明治8年(1875年)6月1日、内務省の地理寮量地課に気象掛(通称「東京気象台」、気象庁の前身)ができ、東京府第2大区第4小区溜池葵町(東京都港区赤坂葵町)で空中電気と地震の観測を開始したことから始まっています。

 つまり、気温や雨、風などの気象観測を行う組織ができたのは、6月1日ですが、実際に気象観測を行ったのは6月1日からではありません。

 明治8年(1875年)6月5日からです。これは、当時の気象観測の重点が気候を知るためのものであり、重視されたのは5日間の平均の値でした。

 1年を73半旬に分けて統計すると、6月1日以降の最初の区切りが、32半旬が始まるのは6月5日からで、6月1日から4日までは予備観測が行われていたかも知れませんが、後世に資料は残されていません。

 明治15年(1882年)1月、内務省地理局では、暴風警報を実施するためドイツ人のエルヴィン・クニッピングを雇い、必要な測候所の見直しを行い、既存の12か所では不足するとして秋田、岩手県・宮古、静岡県・浜松と沼津、鳥取、山口県・下関、宮崎、鹿児島の8か所の測候所を増設をしています。

 そして、翌16年(1883年)2月から毎日天気図を作成し、暴風警報を発表する業務が始まっています。

 明治17年7月からは天気予報も始まっていますが、ラジオが無い時代、天気予報は旗や掲示板で伝達されました。

 図1は明治時代の下関測候所ですが、測候所や見晴らしの良い高台などに信号柱が建てられ、風向を示す三角形の旗と天気を示す長方形の旗の色で住民に情報を伝えていました(図1、図2)。 

図1 明治時代の下関測候所
図1 明治時代の下関測候所

図2 岐阜県大垣城に立てられた天気信号柱(大正年間)
図2 岐阜県大垣城に立てられた天気信号柱(大正年間)

 三角形の旗は、白が北、緑が東、赤が南、青が西風を示し、長方形の旗は、白が晴れ、赤が曇り、青が雨、緑が雪を評していました。

 また、測候所や役場、警察署、鉄道の駅などに設置された掲示板に天気図が張り出されました(図3)。

図3 京都府宮津出張所の天気掲示板(明治年間)
図3 京都府宮津出張所の天気掲示板(明治年間)

 中でも、天気予報や天気図の国民への普及に大きかったのは鉄道の駅の掲示板への張り出しでした。

鉄道の駅の掲示板に天気図

 鉄道の駅は、旅行者だけが利用するものではありません。

 多くの見送りの人が訪れます。特に、東京の玄関口である新橋駅は、遠くへ旅立つ人が多いことから、それを見送るため多くの人が集まります。

 「欧亜国際列車」による旅が始まった頃の様子は、ロマン主義文学の中心的人物で歌人の与謝野晶子が、夫である同じく歌人の与謝野鉄幹を追ってヨーロッパに行った時の新聞記事や、晶子や鉄幹の手紙などに残されています。

 与謝野晶子は、欧亜国際連絡列車が運行した約1年後、明治45年(1912年)5月5日18時35分に、新橋発神戸行きの列車に乗り、敦賀よりロシア船・アリオヨル号でウラジオストクへ渡り、シベリア鉄道でモスクワに向かっています。そして、5月19日にパリにつき、6月20日まで約一か月パリに滞在しています。

引用:読売新聞(明治45年(1912年)5月6日朝刊)

晶子女史、パリへ出発、

五日午後巴里に向ふ 夫寛氏の外遊以来寂しい一番町の邸宅に七人の愛児とともにやるせない生活を続けて居た与謝野夫人晶子女子は、愈々昨日午後六時半新橋発神戸急行列車に塔じて久しく滞在中の良人を慕ひ巴里を差して発程した。

▲文士詩人の列

女史は巴里行きの為めに華美な新装を調へたと聞いた記者は、晴れた日にも尚薄暗い新橋停車場に晩春の花を飾るであろうと期待した。やがて午後五時四十分と思う頃、数輌の自動車が車寄せに梶棒を下した…

▲敦賀まで

見送人はホームにギッシリと詰めかける。二等列車に乗って金指輪の光る両手を窓に掛けた女史は絶えず微笑みながら一々挨拶に忙しい…

 新聞記事から、与謝野晶子は、高村幸太郎や佐々木信綱、小山内薫、北原白秋、平塚明子(らいてふ)など、多くの著名人に見送られて新橋からパリへ旅立っていることがわかります。

 

新橋駅と印刷天気図

 天気図が鉄道の駅にどのようにして掲示されていたのか、詳しい資料が残されていませんが、最初に張り出されたのは、明治16年(1883年)8月23日から新橋駅と横浜駅(現在の桜木町駅)という日付と場所はわかっています。

 そして、この時に張り出された天気図もわかっています(図4)。

図4 明治16年(1883年)8月23日6時の印刷天気図と天気予報
図4 明治16年(1883年)8月23日6時の印刷天気図と天気予報

 というのは、当時の天気図は、石版画で作られ、宮中や各官庁、新聞社等に配布されていたものしかないのですが、数多く作られていたことによって、現存しているものがあるからです。

 これが、当時の天気図を「印刷天気図」と称している所以ですが、一枚の紙に天気図と気象観測結果があり、右上には天気予報文とともに予報責任者の名前(図4ではクニッピング:日本語は右から左へ横書き)の名前が記されていました。

 天気図の大きさは、最初は、縦31センチ、横26センチでしたが、明治16年(1883年7月1日からは縦21.6センチ、横18.4センチと少し小さくなっています。

 個人的には、掲示板に貼ることを意識しての縮小ではないかと考えています。

 天気図には、英語と日本語が併記され、統一された観測方法に従って観測されたデータが記入されているのですが、このことを知らなくても、今朝の福岡のことを今知ることができるんだとの感慨はあったと思われます。

 また、天気図には京都時で観測したという全国標準時の考え方や、日本ではまだ使用されていないメートル法で距離や気圧(当時は水銀気圧計の目盛りであるミリメートルで表記)が使われていました。

 新橋と横浜での天気図掲示が始まった頃、明治政府は東京と大阪間の幹線鉄道を中山道経由で建設すると発表していますが、3年後の明治19年(1886年)には東海道経由に変更となっています。

 また、平成27年度下半期のNHK朝ドラ「あさが来た」で、主人公の白岡あさ(主演:波留)が、東京にでてくる明治11年(1878年)のシーンでは、嫁ぎ先の加納屋から20分の大阪港から横浜まで蒸気船、横浜から新橋まで陸蒸気(汽車)に乗っていました。

 こんな、文明開化の揺籃期から、駅には天気図が張られていたのです。

 そして、駅に貼られた多色刷りの天気図と天気予報は、旅行者に旅に役立つ情報を伝えていただけでなく、駅を訪れる多くの見送りの人々に文明開化の香りを届けていたのではないかと思います。

図1、図2、図3の出典:気象庁(昭和50年(1975年))、気象百年史、日本気象学会。

図4の出典:原典:気象庁「(印刷天気図)」 加工:CODH「歴史ビッグデータ」/国立情報学研究所「デジタル台風」

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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