どこにでもありそうな物語、その奥に潜む「いのち」の深淵さを描き出す『粛々と運針』
演劇ユニットiakuを主宰する横山拓也さんの舞台は、『逢いにいくの、雨だけど』と『目頭を押さえた』を観たことがある。それは一見、ごく身近にいそうな人たちが織りなす物語なのに、そこには神秘的な美しさと怖さが同居していた。
人間の心の奥深くを抉り出すような描写に戦慄を覚えながら、「この世界、違うキャスティング、演出で舞台化したらどうなるのだろう?」ふと、そんな興味も掻き立てられた。はからずも今回PARCO劇場にて、それが実現したわけだが、ウォーリー木下氏による斬新な演出と、キャストの的確で繊細な芝居が見事に調和した舞台に、「なるほど、こうなるわけか!」と目を見張ったのだった。
幕開き、「GOMA &粛々リズム隊」が奏でる音楽が、耳というより腹に響いてくる。映像を大胆に駆使して始まる幕開きも、リズミカルで躍動感にあふれていて、この作品のテーマである「いのち」の胎動を感じさせる。
舞台上に垂れ下がる糸は、まるで運命を操る糸のよう。そして、舞台上のあちこちに並べられた椅子やテーブル。役者たちが座る椅子を変えながら対話していく様は、近づいたり遠ざかったりする心の距離を表しているようだ。
築野家と田熊家、二つのまったく関係のない家の物語が並行して進んでいく。
築野家の兄・一(はじめ・加藤シゲアキ)と弟・紘(つなぐ・須賀健太)は、余命いくばくもない母がいきなり尊厳死を望むと言い出したことに戸惑っている。40過ぎても実家を出ずコンビニでバイトをしながら暮らしている兄と、結婚して自立している弟との間には温度差がある。
いっぽう田熊家の夫・應介(前野朋哉)と妻・沙都子(徳永えり)は、念願の一軒家を買い、二人だけの生活を楽しんでいる夫婦だ。そこに、想定外の沙都子の妊娠が発覚した。「子どもは持たない」という二人の決めごとを頑なに守ろうとする沙都子と、急速に揺らいでいく應介。夫婦の間には深い溝ができてしまう。
その背後で、粛々と運針を続ける二人の女性がいる。無邪気な少女の糸(河村花)と、年を重ねて落ち着いた風情の結(多岐川裕美)だ。彼女たちのおしゃべりの話題は何故か、人間たちの都合で斬られてしまった川沿いの桜の木のことだった。
散りゆく桜と、繋がれていく糸。物語が進むにつれて、謎めいた彼女たちの正体も、次第に明らかになっていく。
築野家と田熊家の話は、どちらも、一見よくあるシチュエーションだ。観客もまた、登場人物の誰かに我が身を置き換えて、感情移入したくなるのではないだろうか。
私も二人姉妹の長女だから、「長男だから」を口癖にしながら実家に執着し甘ったれている一の気持ちがよくわかる。だが、「もしかすると妹はそんな私を、紘のように冷静に見ているのかも知れないな」などと、苦笑いしたくなる。
そして私も女だから、沙都子を見ているのがいたたまれない。「どうか新しいいのちが守られますように」と祈りたくなるいっぽうで、自分の人生を守ろうとする沙都子の必死の思いも痛いほどに理解できる。ふたつの気持ちが、自分の中でもせめぎ合って苦しくなってしまう。
気持ちがわかりすぎるくらいわかると、感情移入するのがだんだん辛くなってくる。ここまで身につまされる話を敢えて舞台で観ることの意味は、いったい何なのだろう? 改めて考えてしまう。
没入すると溺れそうになるから、自分を無理やりそこから引き上げないと、見ていられない。そうすれば、息も絶え絶えになりつつ、心の苦しさを客観視できる。もしかすると、それが効用なのかもしれない。
「みんなが哀しい」劇中のそんなセリフを聞いたとき、そうだな、そうかも知れないと思った。
みんな正しくて、みんな哀しい。生まれ出るいのち、消えゆくいのち。そして「わたし」のいのちと「大切な誰か」のいのち。どれも失いたくない。守りたい気持ちと気持ちのぶつかり合いの中で、どの道を選ぶのが正解かは、わからない。
それでも心を開いて、気持ちを思い切って言葉にして、互いをわかり合おうとする。結局、それしか道は残されていない。粛々とそうすることが「いのち」をつなぐ営みなのだ。
そしてそれは、とても美しい。まるで川辺に咲き誇っては散る桜並木のよう…あふれる想いの川から自分自身を引き上げてこの舞台を観たとき、そんな景色が見えたような気がしたのだった。