学校トイレの地域開放は大丈夫? 大阪教育大付属池田小事件と文京区元町小の鏡子ちゃん殺害事件から考える
東京・渋谷区に設置されたトイレをめぐり議論が高まっている。筆者は「犯罪機会論」の視点から、その問題点を指摘してきたが、渋谷区では、学校のトイレにも問題がありそうだ。というのは、渋谷区の『新しい学校づくり』整備方針では、「地域開放用トイレ」を設置すると宣言しているからだ。
以下では、二つの小学校で起きた児童の殺人事件を振り返り、防犯の教訓を導き出したい。
悲劇を検証する
学校のトイレで起きた児童殺人事件としては、いわゆる鏡子ちゃん殺害事件(1954年)がある。東京・文京区の元町小学校で起きた事件だ。
午前中の授業が行われている最中に、7歳の女児がトイレの中で絞殺された。犯人は20歳で覚醒剤の中毒患者だった。事件現場となったトイレは内側から鍵がかけられ、女児は下着を口に詰め込まれて暴行を受けていた。
その後も、京都市の日野小学校のグラウンドで、7歳の男児が21歳の男に殺害される事件(1999年)など、学校内で事件は起きていたが、やはり何と言っても、世間を震撼させたのは大阪教育大付属池田小事件(2001年)だ。学校に包丁を持った男が侵入し、児童8人が死亡、教師2人を含む15人が重軽傷を負った事件である。
事件後、犯人は「死刑になりたかった」と供述したため、犯人の人格障害に注目が集まったが、そうした「犯罪原因論」(犯行の動機をなくそうという立場)では、具体的で実効的な予防策を導き出すのは難しい。しかし、「犯罪機会論」(犯行のチャンスをなくそうという立場)であれば、この事件から多くの予防策を引き出せる。
「犯罪機会論」では、動機があっても、犯行のコストやリスクが高く、犯行によるリターンが低ければ、犯罪は実行されないと考える。研究の結果、犯罪が起きやすい場所は、「入りやすい場所」と「見えにくい場所」であることがすでに分かっている。
事件当時の池田小も「入りやすく見えにくい場所」だった。
例えば、犯人は法廷で「門が閉まっていたら入らなかった」と述べている。門が開いていたから、つまり「入りやすい場所」だったから、校内に侵入して児童を刺殺したと語ったのだ。
また、犯人が敷地内に侵入した門から校舎までの経路は、体育館が邪魔になって事務室や職員室からは視認が困難だった。つまり、「見えにくい場所」でもあったわけだ。
こうすれば侵入を防げる
したがって、学校を「入りにくい場所」にするには、門を閉めておく必要がある。もっとも、校門を閉めることに対しては、「開かれた学校づくり」に反すると異議を唱える人もいる。しかし、この意見は、有形のハードと無形のソフトを混同している。
もともと「開かれた学校」は、ソフト面の「地域との連携」を意味していた。ハード面の「校門の開放」ではないのだ。それを勘違いした池田小は、門開放の責任を認め、5億円の賠償金を支払うことになった。
海外の学校では、ハード的にはクローズにしているが、ソフト的にはオープンだ。
例えば、イギリスの学校は校門を閉めているが、教室では地元の親がボランティアとして授業を手伝っている。このような学校こそ「開かれた学校」の名に値する。
事件後、池田小では、学校を「入りにくく見えやすい場所」にする改築や教育改革が行われた。
例えば、校門を1カ所に絞り、そこに警備員を置き、校舎をガラス張りにした。
また、担任の机を職員室ではなく、教室近くの教官コーナーに置いた。
さらに、全学年で「地域安全マップ」の授業を行うこととした。
池田小のケースは、事件の反省を踏まえて、場所を改善した好事例である。こうした参考になるケースは、「犯罪機会論」が普及している海外に多い。
例えば、ソウル日本人学校は、緩やかなスロープ状の玄関アプローチと、それを囲むガラスカーテンウォールの建物によって、「入りにくく見えやすい場所」になっている。
池田小やソウル日本人学校のように、多額の予算をかけることが難しい場合でも、低コストでできる侵入防止対策がある。
例えば、神奈川県藤沢市が採用している来校者誘導用のラインがその典型だ。
藤沢市の小中学校では、校門から校舎玄関(受付)まで地面にオレンジ色のライン(誘導線)が引かれている。病院の廊下にあるカラフルなナビラインに似ている。
多くの学校では、侵入者への対策として、「校長の許可なく立ち入り禁止」とか「ご用のある方は受付にお寄りください」といった掲示を校門に出している。しかし、こうした掲示を読んでも、犯罪者は侵入をあきらめたりはしない。
侵入するかどうかの判断基準は、見つかったときに言い訳ができるかどうかだ。
従来の掲示なら、子どもを物色しているとき、教職員に見つかっても、「受付に行こうと思ったのですが、道に迷ってしまいました」と言い訳ができてしまう。もちろん、とがめを受けることもない。
しかし、藤沢市の学校ではそうはいかない。受付までのラインを歩いていれば、道に迷うことは絶対にない。だから普通、来校者はラインの上を歩く。したがって、ラインから外れただけで、それを「不審な行動」と見なすことができる。
もはや「道に迷ってしまいました」などと言い訳はできない。しかも、ラインを歩いているかどうかは子どもでも分かる。
要するに、言い訳しにくい、つまり、すぐにバレそうだと犯罪者に思わせる学校は、心理的に「入りにくい場所」なのである。
この藤沢市の事例はまれなケースであり、学校現場での「犯罪機会論」の取り組みは遅々として進んでいない。それどころか、逆に「犯罪機会論」に反して、学校を「入りやすい場所」にしようとする動きさえある。地域開放用トイレもその一例だ。
学校の敷地内に地域開放用トイレを作るなら、トイレの利用者が教室に入ったり、校庭で子どもと接触したりできないように、しっかり分離する「ゾーニング(すみ分け)」が必要だ。
精神論から科学へ
日本では「みんなで一緒に」という精神論が強いので、犯罪の温床であるトイレの設計さえも「犯罪機会論」を無視し、「ゾーニング」を採用していない。
ゾーニングこそが多様性を高めるにもかかわらずだ。
「区別しない」という精神論は、「多様性」を犠牲にして「画一性」を高めることにつながる。そして、それは「教育の多様化」にも反する。
ハードの「区別」とソフトの「差別」を混同してはならない。
学校は、科学を教える現場でありながら、非科学的な取り組みばかりが目立つと感じてしまう。学校や教育では、「犯罪機会論」という科学は不要なのだろうか。
「気合」では犯罪を防げない。「科学」でしか犯罪を防げない。
日本の学校では、毎年、1000件以上の不法侵入が起きている。学校は、社会的弱者である子どもを守る「最後の砦」だ。そのことを、ゆめゆめ忘れてはなるまい。