なぜ織田信長は、反旗を翻した兄の信広を厳罰に処さなかったのか
ときの政権に反旗を翻し、処刑される例は現在でも決して珍しくない。それは、戦国時代でも同じである。織田信長は兄の信広が謀反を起こしたとき、厳罰を科さずに許した。その辺りの事情を考えてみよう。
尾張を支配していた織田信秀が亡くなると、子の信長が家督を継いだ。しかし、信長には、信広という兄がいた。普通ならば、信広が跡を継ぐべきであるが、そうはならなかった。信広の母は、出自すらわからない女性だった。そのような事情もあって、信長が織田家を率いることになったと考えられる。
とはいえ、信広には野心があった。弘治2年(1556)頃、信長と対立していた斎藤義龍から内応するよう求められ、応じることにしたのである。その作戦については、『信長公記』に詳しく書かれているので、以下、概要を示すことにしよう。
信長が敵襲により、ただちに清洲城(愛知県清須市)から出陣すると、その留守を狙って信広が清洲城に急行し、城代の佐脇藤右衛門に面会する。藤右衛門は兄の信広に警戒心を持っていないので、城内に入れると予想。
城内に招き入れられた信広は藤右衛門を斬り、斎藤氏の軍勢に合図の狼煙を上げ、城に攻め込ませる。これが、信広と斎藤氏が考えた作戦だった。
しかし、この作戦は信長に見抜かれており、成功しなかったのである。たとえ、兄弟であっても、裏切り者を厳しく処分するのが通例だったが、信長は信広の才覚を高く評価していたので、許すことにした。以降、信広は信長のために、各地を転戦することになった。
元亀2年(1571)、信広は比叡山に出陣し、焼き討ちに加担した。翌年には、岩村城(岐阜県恵那市)に入城し、敵対していた武田氏に備えた。つまり、信広は態度を180度変えて、信長のために出陣し、忠節を尽くしたのである。
天正2年(1574)、信広は長島(三重県桑名市)に出陣し、一向一揆との戦いに臨んだ。当時、信長は本願寺と対立し、大坂だけでなく、越前などでも一向一揆と戦いを繰り広げていた。しかし、同年9月の戦いで、信広は敵との交戦中に討ち死にしたのである。
信長と言えば、裏切り者は許さないというイメージがあるが、決してそうではなかった。「使える」という人材ならば、以後の忠誠を誓わせたうえで、許すこともあったのである。