日立が英国で原発建設を凍結(2)世界唯一の原発民営化市場:推進派と反対派の戦い。そして英の奇妙な戦略
原発は自由市場に耐えられるか
英国政府は、「原発には一切の公的資金を出さない」と、何十年にもわたって明言してきた。しかし実際には、再生可能エネルギーの電力買取をしているのと同じように、原発の電力も買い取る計画を進めていた。
2009年の時点で、ザ・ガーディアン紙は「政府は電気に税金をかける形で、原発に補助金を出す計画がある」という政府の秘密政策をすっぱぬいた。2013年になると、「原発建設のためには、40年の補助金にサインする必要がある」と大臣が発言した。
中国資本の参加が発表された少し後の昨年10月の下旬、英国政府が原発1基目の電力を買取価格は92.5ポンド/MWh、期間は25年で正式合意したと発表した。(2基目が完成したら89.5ポンド)。これは現在の電気代の、約2倍である。
メディアは当然、非難を浴びせた。政府は原発に一銭も出さないという約束を、やはり破ったのだ。政府は常に「民間企業のほうがずっとうまくやれる」とも言い続けてきた。キャメロン首相など、この期に及んでまだ「競争が足りないからこうなる」という趣旨の発言を下院でしている。
なんといおうと、政府は約束を破って市民を裏切った。しかし、メディアでは思ったよりも政府への非難が少ない。価格の点に問題が集中している。25年も戦って、原発の完全民営化など無理であると社会レベルで悟っているのだ。そのため、メディアの焦点は、今の電気代の約2倍の価格という点にある。電気代はさらに上がり続けるのか。消費者は小さい会社との契約が増えたという。
問題は、原発が完成するのは約10年後の2023年の予定であることだ。10-35年後の電気代は誰にもわからない。 現政府は「原発を建設しなければ、もっと価格は上がる」と言うが、野党の労働党は「来年の選挙で勝ったら20ヶ月は電気代を凍結する」と対抗している。
エネルギーコンサルタントの大手CFPパートナーズ(本社ロンドン)によると、2023年の電力卸価格は、68ポンド/MWhで、2014年と同じくらいになるのではないかと予想している。報道によると、この費用は解体費込みだそうだ。これは妥当な額なのか、高いのか、安いのか。
英国フランス電力のトップ、ドゥ・リヴァ氏は「原発は民営化市場で、十分に競争に耐えられる」と言う。また「再生可能エネルギーよりも安い」と反論しているが、現在の買い取り価格から見れば、大雑把に言えば事実である。
政府は、特に小規模な発電施設を推進している。各会社や、小共同体や家庭が自家発電できるような規模のことで、大変高額な買取価格を設定している。
結局、原発の92.5ポンド/MWhという買取価格が妥当かどうかは、再生可能エネルギーが将来どのくらい発展して安くなるかにかかっている。英国はテムズ川沿いにスコットランドまで風力発電を設置する計画もある。もちろん、石油価格やシェールガスの動向も影響するが、再生可能エネルギーが起動にのれば、「限りある資源の価格に左右される電力価格」という概念自体が古くなる。
ファイナンシャル・タイムズは「費用と環境とどちらを選ぶか」という題で、以下のように述べた。「新規原発を建設しなければ停電に陥るというが、それは英国が二酸化炭素排出量を削減しようとそのほかの発電方法を選択肢から除外したためである。新規原発建設にかかる費用が明らかになった今、政策立案者たちは改めて二酸化炭素排出量の削減目標を維持する意味を説明しなければならない。もしそれができないのであれば、方針を変更すべきだ。今さら方針を変換するのがみっともないというだけで、英国は支払い不可能な借金を背負ってはならない」。
それにしても、英国とフランスはすさまじい丁々発止であった。この二カ国は、もう千年以上もこんなことを繰り返してきたのだ。こんな市場に日本が参入してうまく立ち回れるのだろうか。
原発民営化25年の歴史
英国の25年間に及ぶ「原発民営化の歴史」を簡単に解説しよう。大きく分けて、3段階ある。
まず最初の段階は、保守党のサッチャー政権である。サッチャー首相は80年代に国営企業の民営化という、国の大構造改革を行った。飛行機、製鉄、テレコム、そしてエネルギー。まず1986年にガスの民営化、続いて1989年に電力の民営化を果たした。ガスの民営化を果たした同じ年に、チェルノブイリ原発事故がおきた。
サッチャー首相は、事故がおきてもなお、原発の新設を推進しようとしていた。しかし、これに異議をとなえたのはシティと、エネルギー長官ウエイクハム卿とローソン大蔵大臣だった。
すでに閉鎖の問題が出ていた古いマグノックス炉に関しては、民営化は早々にあきらめた。問題は、新型の改良ガス冷却炉と3基の新設計画だ。さらに、アメリカの技術による加圧水型原子炉(PWR)が1基建設中だった。シティの銀行や投資家たちは「負債」=解体費用や核のゴミ費用が不確かすぎるとし、政府が完全に債務を保証することと、重大なリスクに対して保険を与えることを望んだ。方法は政府が直接でもいいし、消費者を通す形(つまり電気代であろう)でもいいとした。
1989年11月、サッチャー首相はニューヨークの国連のスピーチで、原発は地球の温暖化を軽減するだろうと演説したが、その翌日、ウエイクハム卿はロンドン議会で、反対の演説を行った。原発は民営化が不可能であり、新設も利益率を考えたら競争不可能であるからやめるべきだという内容だ。大蔵省もコストの問題で反対、ウエイクハム卿とローソン大蔵大臣は、首相を支持することを拒絶したのだった。
結局、当時建設中のPWRは建設されてしまった。しかし、彼らの反対は無駄ではなかった。その後英国では、チェルノブイリを忘れる時代になるまで、原発の新設計画はうまれなかった。
政府が所有していた電力会社は分割民営化された。原発を所有する会社のみ政府所有の会社となり、再編成を経てブリティッシュ・エナジーとなった。
この第一段階の自由化・市場開放の後の状況は、これからの日本の状況と大変似ると思う。『原発ホワイトアウト』という本には、第8章の中に「小売自由化の金看板は表の世界ではおろさない」「神は細部に宿る」と言いながら、法律の具体的な運用のさじ加減は、世論をみつつ、原発推進側に有利にもっていく計画の光景が描かれている。日本は英国の15年遅れで似た道をたどっているように見える。
当時英国では、市場開放といっても、電気料金は高いままだった。実際には大手発電の二社(元国営企業)が価格を決定していたのだ。第二段階は、この変革にある。なぜこうだったかを一言でいうなら、電力の卸売り市場で、発電事業者だけが入札できるシステムのためであった。「プール制度」と呼ばれる。
これを改革したのが、2001年3月の「新電力取引協定」(NETA)だ。発電事業者だけではなく、配電や電力供給会社、大口ユーザーなど買い手の側も入札に参加できる制度である。
この制度は、二つの大変革をもたらした。一つは、正しい競争による電気料金の下落、もう一つは、原発のコスト高が市場であらわになったことだ。
電力価格は、大口ユーザーの年間契約では、競争法(後述)が制定された2年前に比べて35パーセント、一般では15パーセントも下がっていた。
「もう価格は下がっているのだから、法律が施行されても大して効果はないだろう」、「結局は大手が決める実情に変わりはないのではないか」など、冷ややかな見方もあった。ところが、効果は現れた。卸価格はさらに下がり、1年後には約18パーセントも下がったのだ。
そして、この直撃を受けたのが、原発を抱えるブリティッシュ・エナジーだった。発電価格より、販売価格のほうが下回ってしまったのだ。
なぜこのような革新的な法律が制定されたのか。
理由は3つあると思う。
一つ目は、政権の交代である。1997年には、伝統的に親原発派の保守党が大敗、18年間保った政権の座は、反原発派と言ってよい労働党にうつった。そして、力を伸ばしつつあった第三局と言える自民党はさらに反原発派であった。
二つ目は、市場開放が進んだことである。90年代は徐々に市場解放は進み、新規参入は2000年には20パーセントになっていた。
最後に、欧州連合の動きである。2002年のユーロ導入に向けて、1999年からはユーロが決済用仮想通貨として使われ始めた。英国は欧州連合に加盟しているが、通貨はポンドでユーロはライバルになる。情勢に対応するために、1999年に英国では「競争法」が制定された。電力を含む市場を「欧州連合の機能に関する条約」にある「反競争的な協定の禁止」に添うような形にすることが、目的の一つだった。
これらの動きを受けて、2000年に、監督機関の実行組織であるガス・電力市場委員会(OFGEM)が設立された。OFGEMの予算は、管理している企業から出されているが、企業からは独立している組織である。OFGEMは正しい監督組織として機能し、電力会社に数々の改善要請を出すようになった。初の大仕事が「新電力取引協定」だったのだ。
OFGEMは「卸価格がこれほど下がったのだから、電気代はもっと下がってもいいはずだ」ということで、消費者に「さらに正しい競争を引き起こして消費者が利益を受けるために、電力会社を少しでも安い会社に切り替えろ」と勧告するようになる。これは現在も続いている。
正しい市場競争が機能することになった結果、ブリティッシュ・エナジーは、経営破たんの危機におちいった。
2002年9月には、合計6億5000万ポンドを政府が緊急融資した。その後何度も、救済のために返済期限を延長した。このような中、「第4世代」と呼ばれるアメリカ製の原発の開発計画がエネルギー白書に盛り込まれるはずだったという。しかし、ブリティッシュ・エナジーが破綻寸前で、国民の税金を使って救済することにも批判が大きかったことから、見送られたという。2003年には再国営化の案も具体的に出されはじめた。しかし監督機関Ofgemは「電力も他の 市場同様に淘汰(とうた)は避けられない」と、抗戦していた。
2002年9月には、合計6億5000万ポンドを政府が緊急融資した。その後何度も、救済のために返済期限。同年3月期の決算では、約43億ポンドという赤字を出した。2004年には、3社に分割して最大50億ポンドの政府救済策をとるという計画もあり、欧州委員会に承認された。
原発のコスト高を市場であらわにしたのは、この協定だった。そして、協定をつくりあげたのは、正しく機能する監督組織だった。この点を、今後の日本の行く末のために、何百回でも強調したい。
英国が行ったウルトラC
このあたりから、奇怪な状況が展開される。外交下手な日本人には、なかなか頭がついてこない出来事の連続だ。
破綻寸前のブリティッシュエナジーにとっては「神風」ともいうべきものが吹いた。原油価格の高騰である。2004年に史上初めて1バレル40ドルを越えた(WTI価格)。その後上昇の一途をたどり、現在では100ドルを超えるのも珍しくない。それに連動するかのように、電気料金の高騰が始まった。同時期の2004-5年に、英国は石油とガスの純輸入国に転じた。
理由は、英国領内の北海油田・ガス田が減少してきたためと言われている。また、英国はCO2に対する取り組みを、重要な国家戦略にすえていたこともある。さらに、古い原発の閉鎖があいついでいたという事情もある。2000年に入ってから14炉が閉鎖して、その分の電力はなくなった。
2005年、電気代が高騰して業績は改善したことと、債権銀行団に経営権を委譲する計画が裁判所に認められたことで、ロンドンの証券取引所に再上場がかなった。
しかし、翌年の2006年、政府はブリティッシュエナジーの株式を売却することを発表した。
2007年、エネルギー白書に新規原発建設が記された。チェルノブイリ事故以来の、政策の大転換である。政権の座にある労働党は、伝統的に原発には反対のはずだったのに、「情勢が変わった」「エネルギーミックスが必要で、原発は重要な貢献をする」という理由で政策を転換したのである。
翌年になると、ブラウン首相は、「原発ルネッサンス」の一環として、8基の原発を新設する計画を発表した。英国は親原発の国だ、原発の起死回生だと、親原発派は色めきたった。
しかし、白書にははっきりと「新設は国の援助なし」と書かれている。政府の発表を受けて、ブリティッシュエナジーの株価は大きく持ち直した。また、電気料金の高騰で増益も続いていた。根本に問題を抱えた破綻寸前の会社が、短期間でこれほど変わるとは。「マネーゲーム」という言葉が頭をよぎってしまう。
2008年、フランス電力が約125億ポンドでブリティッシュエナジーを買収することが決定した。
ブリティッシュエナジーは売れたのだ。買ったのはフランス国が約85パーセント株式を保有する電力会社、すなわち「フランス株式会社」であった。メディアは、各国のそうそうたる電力会社が買収に興味を示したような報道をしたが、実際はフランス電力しか正式に買い取りをオファーしていなかったという。