大阪商法は、本当に金に汚く、ケチで、あくどいものか? 渋沢栄一や五代友厚が大切にしたものとは。
・相変わらず繰り返されるステレオタイプ
テレビドラマを見ていると、詐欺師など金に絡んで主人公に難癖をつけるような登場人物の多くが、なぜか「関西弁」を話しています。東京に暮らす若い夫婦のところにやってきていろいろ難癖をつけるという義母という設定も、なぜか関西からやってくるという設定が多いようです。
さらに、「大阪は江戸時代から幕府の役人がおらず、商人が自分たちで街を運営してきたので、大阪人はもともと役人嫌い気質だ」などと、それなりの知識人が訳知り顔で話しています。
金に汚く、意地汚く、ケチであくどく、規則やきまりなどは守らず、役人などは大嫌い。そういう「大阪人」像が、どうも独り歩きしているようだ。下手をすると、当の関西や大阪に住む人までが、それが古くからの「大阪人」の伝統だと思い込んでいるようです。
・経済史を学ぶと違った側面が現れる
2021年の大河ドラマは渋沢栄一氏が取り上げられます。明治、大正、昭和と日本の実業界を育て上げた偉人の一人です。もう一人、大阪経済を育て上げたとされる実業家に、五代友厚氏がいます。そして、この二人には交友があり、48歳で五代氏が亡くなった後も、渋沢氏は大阪での実業界への支援を行っていました。
鹿児島出身の五代友厚氏が、明治維新の大阪を訪れた幕末から明治初期。壊滅的な状況だったと、後に五代氏が言うように、幕末の大阪は衰退が激しい状況でした。
もし、仮に江戸時代から大阪商人たちが、幕府の役人に依存せず、自分たちだけで自由闊達に商業を繁栄させていたのであれば、なぜ明治維新を契機に、そこまで激しく衰退したのでしょうか。
・全国の産品が大阪に集まった理由
確かに江戸幕府は大阪での商業には厳しい税制をかけず、むしろ免税によって保護していました。ただし、その代わりに大阪に住む町人は町普請といって、道路や公共施設については、自分たちで整備することが求められていました。
幕府は各藩に対し、年貢として納められる米などの産品をすべて大阪に集積し、そこで取引を行うこととしていました。
こうした政策によって、全国の各藩は大阪の中の島周辺に、出先機関と倉庫に当たる蔵を設けたのです。瀬戸内海という天然の運河と穏やかな大阪湾、そして京都ととの行き来も淀川を利用できる、当時主流の輸送手段である海運を最大限に活用できる好立地であったことも幸いし、大変な賑わいを見せるのです。
全国の産品は大阪=上方に集められ、そこから全国各地に下っていく。つまり、「下り物」は高級品、良品の代名詞だったのです。そこから、「地方に売りに出すこともできない不良品、悪品」を「下らない物」と呼ぶようになったと言われています。
・大阪商人はおとなしく、目立たたないことが第一
関西経済史の研究家として第一人者である宮本又次氏(注1)は、大阪商人の特徴について、次のように述べています。少し長いですが、引用しておきます。
『もとより大阪人には始末とか「もったない」という風な節約の精神があり、これは江戸時代から明治大正期を経た今日においても大阪人の基本的な気質にはなっている。栄誉ということを警戒し、地味に、着実に振るまう。才覚と算用をはたらかせ、コツコツと、薄口銭でも人一倍よけいに働いて、ひたいに汗して利得をはかるものになっていた。
そして辛辣な「えげつない」ことを本来の大阪人は嫌ってやまなかった。「がめつい」、「えげつない」ことを大阪人の属性のようにいう人があるが、これは誤解も甚だしい。「えげつない」ことは、大坂では少なくとも世間のつきあいという見地からは、それは、つまはじきにされた。悪徳と考えられた。そしておおようで、心や動作のゆったりした「おっとり」したものを理想とした。』(注2)
どうでしょうか。現在、まことしやかに述べられている「大阪商人」のイメージとは大きく異なっていませんか。
・江戸幕府の消滅ととも、大阪経済は衰退
実際には役人つまり武士たちとの関係も深く、多くの大阪商人は幕府や各藩に資金を融資していました。このことが、幕末、明治維新の際に、大阪経済の混乱を招いたのです。
幕末、江戸幕府の瓦解によって、大阪に駐在していた各藩の武士たちは郷里に一斉に引き上げました。江戸時代には40万人を超していたと言われる人口が、一気に30万人を切るほどまでに人口が減少しました。そして、幕府の強制的な制度で大阪に集められていた産品の多くが、もう入ってこなくなったのです。武士が消え、経済も悪化する中で、大阪の街は治安も最悪の状態となります。
さらに、幕府や各藩は、資金難のまま消滅し、巨額の貸付金は返済されないままとなりました。そのため、大阪の名だたる商家が次々と没落したのです。
こうした状況を目の当たりにした五代友厚氏は、大阪の経済の立て直しを決意するのです。
実は江戸時代の大阪商人は、「役人嫌い」どころか、「役人の庇護の下」、「幕府の定めた制度の下」に自分たちの繁栄があることを自覚し、その中で才覚と算用をはたらかせ、地味に、着実に振るまうことこそが大切だとしたのです。実際に大阪の商家の家訓などを見ると、「屏風と商売は拡げると倒れる」などと言われるように、本業以外に進出することを禁じる非常に保守的なものが多いのが特徴です。
・大阪人、大阪商法のイメージを変えたのは1970年代のテレビドラマ
1970年代に、現在の大阪人や大阪商法のイメージを形成したきっかけは、全国放送され大人気となったテレビドラマでした。
1970年にテレビドラマとして放送された「細うで繁盛記」は、大阪で生まれ育ち大阪商法を叩きこまれた女性が、伊豆の旅館に嫁ぎ、いじめや数々の嫌がらせなどに遭いながら、旅館を盛り立てていくストーリーで、大人気となります。
さらに、1973年には「新・細うで繁盛記」として、今度は舞台を大阪として、前作とは異なったストーリーで放映されたのです。
同じ1973年から放送が始まった「どてらい男(やつ)」は、総合商社の山善の創業者である山本猛夫氏をモデルとしたストーリーで、こちらも全国放送で大人気となりました。
これら一連のドラマの原作は、作家の花登筺(はなと こばこ)氏によるものでした。このドラマの中では、大阪人、大阪商法を、金に汚く、ケチで、油断のならないものであるという描き方がなされており、主人公たちは「ど根性」でそれらを相手に生き抜いていくというストーリーが大変な人気にとなったのです。しかし、この一連のドラマは、その後のイメージ形成に大きな影響を与えてしまいました。
こうしたドラマでの描き方や、江戸時代には大阪には幕府の役人がいなくて町人が自由にしていたといった誤解が混ざり合って、いわば都市伝説的な大阪人、大阪商法のイメージが形成されたのは、そう古いことではないのです。
ステレオタイプの大阪商法・大阪人のイメージは1970年代の固まった(画像撮影・筆者)
・渋沢栄一や五代友厚が大切にしたことは
渋沢栄一氏や五代友厚氏が現在も尊敬されているのは、渋沢氏の提唱した「道徳経済合一説」に集約されるでしょう。金儲けも大切だが、それは道徳的な裏付けがあり、社会に奉仕する気持ちがなければいけない。近江商人が提唱してきた「三方良し」にも通づるものです。実業界の二人の偉人は、大阪でも活躍をし、繰り返しこの大切さを述べています。そして、これらは大阪人、大阪商法でも長い歴史の中で大切にされてきたことです。
そこで、最後に、ここでもう一度、宮本先生の説明を引用しておきましょう。新型コロナウイルス感染拡大で、2020年は私たちの生活が大きく変化しました。経営や経済にとって、大切にしなくてはならないものは、なんだろうかと立ち止まって考えなくてはいけない状況になっています。温故知新で、もう一度、渋沢栄一氏や五代友厚氏も大切に考えていたであろう昔の「大阪商法」、「大阪人らしさ」を学ぶことも良いのではないでしょうか。
『 阿漕(あこぎ)というものは船をこぐとき幾度も度重ねて、こぐことから転じて、ひつこくくりかえしてやることをいうが、大阪人は阿漕なことをするのを軽蔑した。またのどをきつく刺激する「えぐい」「えげつない」行動、ひどく「むごたらしい」濃厚な態度を「えぐいたらしい」といって顔をそむけたものだ。
本来の大阪町人には、毒性なことはとても出来なかった。そんなことをしたのは外からやって来た本来の大阪人でない人々が敢行した行為で、ほんまもんの大阪人はむしろそれを憎んでやまなかった。大阪人は「そら殺生や」とよくいうが、殺生なことはなすべきことではないと常日頃自戒していたのである。大気、大様が理想であり、「金持ちけんかせず」ともいった。』(注3)
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(注1)1907年~1991年。京都帝国大学経済学部卒業。九州大学、大阪大学、関西学院大学で教授を歴任。関西経済史の第一人者として知られる。
(注2)(注3)ともに、
宮本又次「いまに生きる なにわの人々」朝日新聞社 (1963年)昭和38年より
※大坂、大阪の表記は、「大阪」に統一しました。