「区切り」で受けたはずのトライアウトが転機 11年阪神ドラ1伊藤隼太の今
引退試合をできない者たちの引退試合
「引退試合をしてもらえない人の引退試合みたいなものですね。」
現在独立リーグの愛媛マンダリンパイレーツに在籍している伊藤隼太は、昨年受けた12球団トライアウトをこう振り返る。所属球団から戦力外通告を受けたプロ野球選手が、NPBの取り計らいで各球団に売り込みを図る、今や恒例の人気行事だ。師走の寒空の神宮球場。大学時代慣れ親しんだ場所だったが、別段感慨はなかった。
「参加を決めたのは、戦力外になってから2週間ぐらいだったと思います。もう野球はやめるつもりでいたので、その間、体は動かしていませんでした。でも、トライアウトだけでも受けてほしいと周りからの声が結構あったんです。受けてみて駄目だったら、もうそれでいいんじゃないかみたいな。それで、ちょっとずつ気持ちが変わって…。」
この恒例行事が、なかばショーと化していることは知っていた。このトライアウトの後、次の所属先が決まる選手にはすでに「内定」が出ており、白紙の状態から契約を勝ち取る選手などほとんどいないという。ほとんどの選手は、自らの気持ちにけじめをつけるためにこれに参加するのが実際のところであり、伊藤もそのつもりで臨んだ。
「でも、受験するということになったら、やっぱり中途半端に受けるわけにはいかないので、しっかり体をつくり直しました。タイガースのユニフォームを着てプレーするのは最後だろうし、両親を含め、家族も来てくれたので、ユニフォーム姿を見せるのも最後になるかもしれないと思うと、いいところを見せたいという気持ちにもなりました。それなりの覚悟をもって臨みました。」
2011年、名門・慶応大学からドラフト1位で鳴り物入りでタイガースに入団した伊藤だったが、あこがれのプロ生活は思うようにはいかなかった。キャリアハイと言えるのは3年目の2014年に残した52試合出場、打率.294、ホームラン2本という数字だったろうか。翌年出場試合数、打席数も増やしながら.245と大きく打率を落とすと、チームはもはや伊藤をプロスペクト(有望株)とはみなさなくなった。それでも2018年には、レギュラーのベテラン選手が欠場の際にスタメンでクリンナップに名を連ねるなど、自己最多の96試合に出場したが、首脳陣をうならせるほどの結果を残すことはできなかった。その後2シーズンは一軍の舞台に立つことなく、31歳で戦力外通告を受けることになった。
緊張はしたというものの、大学時代にプレーした勝手知ったるフィールドということもあったのだろう。4打席でツーベース1本を放った。周囲からは、やっぱり受験してくれてよかった、ヒットを見ることができてよかったと声があがった。結局、オファーはなかったが、伊藤もやり切ったと思えた。疲れは残ったが、その疲れも懐かしいものだった。
あの緊張感をもう一度
ここ2年、伊藤はファームでしかプレーすることはなかった。夏場の炎天下のデーゲームはベテランの域に差し掛かっていた伊藤の体には堪えたはずである。しかし、その疲労は、ナイトゲームの大観衆の中でプレーする中で経験するものとは全くの別物であると伊藤は言う。
「やっぱり一軍のゲームというのは違うんです。一軍の舞台って、本当に打席に向かうだけでも足が震えて、もう吐き気もして。でも、そんな中で、勝負が決まる、決まらないみたいな場面で打席に立つんです。一球一球、緊張で足もちゃんと地に付いてないような気持ちになりなりながら、それをいかに自分の中で落ち着かせて、腹の底から湧き上がってくる緊張と闘志を自分の中でコントロールしながら臨むんです。それで、打てた、打てない、そのときの達成感とか悔しさとかの繰り返しの毎日なんです。だから精神的にタフじゃないと戦えないんです。それを僕は2年間、経験してなかった。二軍でも自分でそういうところを想定してやろうとしたんです。別に手を抜いているわけじゃないんですけれども、やっぱり二軍で1年間やるよりも一軍の1打席というほうが、よほど自分の成長にはつながると思いますし、重みもあるんです。」
甲子園、六大学と野球界のレッドカーペットを歩んできた伊藤にとって、常人が耐えうることができない緊張は、プロが初めてではなかった。それでもアマチュア最高峰の舞台に立った者でさえ吐き気を催すような緊張感をプロ野球の一軍の舞台は強いるのだと言う。
「高校野球で言えば最後の夏の大会の前は、そういう感覚でした。前日から寝付けなくて、夢に次の日の試合が出てくるだとか。六大学だったら優勝決定戦。大学1年生のときの早慶戦も、ものすごく浮足立って全然結果が残せませんでした。そういう経験もしてきたんで、その中で結果を出したときの達成感というか、喜びというか、そういうものは何ごとにも代えがたいようなものがあるというのは体で知っています。でも、プロの一軍は、また違うんです。観客の絶対数も違いますし、なによりも自分の生活に直結しますから。大学だったら、結果を残せなかったからって、4年の間にクビにはならないじゃないですか。プロ野球なら、そこで駄目だったら二軍、二軍が駄目だったらクビになる。そういった意味でもアマチュアとプロは全然違います。」
阪神時代、伊藤は、試合前には毎度のように吐き気にさいなまれてトイレにこもっていたと言う。それでも試合になれば、何事もなかったようにフィールドに出、打席に立った。
「6時のナイターだったら、僕らはもう午前10時半ぐらいには甲子園に着いています。それからいろんな準備をして、試合時間が近づいてくるとやっぱり不安になるんです。それだけ真剣に考えているということです。そういう緊張感がないとプロとして駄目だと思っていました。試合に出ないにしても、そういう準備はしているので。僕は代打が多かったんですけれども、それでも試合が終わると2~3キロ体重が減っていました。全員が全員、そういう人じゃないとは思いますけれど、それがプロだと思っていました。」
そんな一軍でしか感じることができない高揚感を伊藤はトライアウトで感じた。正確には一軍の打席に「近い」感覚なのだろうけれども、自らの野球選手としての「生」をかけた、選ばれし者だけが感じることのできる感覚をトライアウトで思い出したのだ。
「2年ぶりの感覚でした。打席で構えていてもフワフワしてるし、手足に力が入っている感覚もない。でもピッチャーも必死なんで、それを真剣に打ち返しにいく。そういう感覚を2年ぶりに味わったんです。ものすごいしんどい感覚なんですけれども、やっぱりそれありきのプロ野選手だなというのをあらためて思いました。」
その感覚が、伊藤の心境に大きな変化をもたらした。区切りにしようと思って受けたトライアウトで、もう一度、あの感覚を味わってみたい、挑戦してみたいなという気持ちが湧いてきたのだ。
「このままじゃ終われない。」
伊藤は現役続行を決めた。
独立リーグへの覚悟
NPB最後の2年間は一軍出場ゼロ。「現役」最晩年はフィールド外で話題になることの方が多かった。伊藤自身、戦力外通告を前にしたとき、野球に対してやり切ったかとか、悔いがあるかないかいうことよりも、フィールド外での疲れから解放された気持ちが強かったのかもしれない。むろんそれは自身が蒔いた種によるものだったには違いないが、とにかく伊藤の背中には、フィールドで感じるプロ独特の緊張感だけではないものがのしかかっていたことは確かなようだ。それがなくなったトライアウトで伊藤はプロ野球選手としての自分を取り戻したのかもしれない。
年が明け、ひとり現役続行に向けてトレーニングを続ける伊藤の下に愛媛マンダリンパイレーツからのオファーが舞い込んだ。
「NPBの球団から声が掛からなかったんですけれども、現役続行を最優先に、コロナ禍で何があるか分からないんで、1人で練習しながら所属するチームを探していたんです。最初は、独立リーグというのは頭になくて、NPB球団や海外とかを、知人に当たってもらっていたんです。そういう状況の中、コーチ兼任の現役選手として来てくれないかという話をもらったんです。今シーズンの所属先が決まっていない状態で、その先もどうなるかは分からないというのもあったんで、まずは野球を全力でプレーする場所を提供してくれたということで入団を決めました。それにコーチ兼任ということも僕の中ではプラスの要素としてとらえました。今までは自分がただプレーをしてきただけでしたけれども、コーチとなると、視野を広げて野球を見ないといけないと思いましたし、若い子たちに経験を伝えてほしいという、球団の言葉にも意気に感じましたから。」
コーチ兼任とはいえ、現役選手としてのNPB復帰というのが伊藤の第一目標であることには変わりない。しかし、一方で現実を見据えて、「その後」も念頭においての決断だったと伊藤は言う。
「目標は高いところに掲げておかないと、モチベーションの維持も難しくなるので、それ(NPB復帰)はもちろん掲げている目標なんですけれども、正直、それが全てではないと思っています。現役継続の可能性があるうちにこんなことを言うのはおかしいかもしれないですけれども、コーチ兼任も含めて、こういう決して恵まれているとは言えない環境でプレーする、こういう野球もあるんだとかも含めて、自分にとっての肥やしの期間。独立リーグを経験するのはもちろん初めてなんですが、野球人生だけでなくて自分のトータルの人生においてもプラスの期間にすることができるんじゃないかなと思ったので、決断しました。さっきも言いましたが、トライアウトまでは、野球は終わりにするつもりでした。でもトライアウトを受けて、やっぱり野球っていいなと思って、そう思った時点で、自分の中に野球への未練があることに気づいたんです。その状態で、次に進んでも、何か違うんじゃないか。だったら、この1年だけでもいいんで、野球にしっかりとしたけじめをつけるというかたちを自分でとって、次に進めばいいんじゃないかな、そう考えたんです。」
実際に身を置いた独立リーグの現実は厳しいものだった。基本的にビジターでは毎試合2時間以上のバス移動。ナイターの終わった後、帰宅すると日付が変わっていることもしばしばだ。その翌日にデーゲームというのも珍しくはない。阪神では、業者が済ませてくれたユニフォームのクリーニングもここでは自分で洗濯せねばならない。学生時代はそうだったと思いながらも、それ以上に厳しい環境に置かれていることをことあるごとに感じる。伊藤はそれも含めて独立リーグで充実感を感じている。
「選手ももちろんNPBと比べたらレベルも劣ります。でも、その若い未熟な選手たちに自分の経験を伝えていると、この数か月の間でも変わってきているのを感じるんです。アドバイスした選手が試合で打ったりしたら、やっぱりうれしいですよね。そういう感覚ってコーチ兼任という立場だからこそ感じられるものであって、自分だけじゃなくチームの成長を一緒に感じるやりがいを今は感じています。」
独立リーグでのプレーは今年1年と決めている。そうでありながら、決して腰掛気分で愛媛に来たわけではないことは、家族とともに松山へ引っ越してきたことが示している。
「もう大阪は引き払って、妻と子供を連れてこっちで一軒家を借りました。やるなら中途半端にするつもりはないんで、ちゃんと住民票も移しました。リーグ自体が地域密着をうたっていますが、それも面白いです。松山の町に住みづらさは感じませんし。もともと僕も田舎の出なんで。」
プレーだけなく、普段の生活も大きく変わった。今はそれも新鮮で全て面白いと感じることができている。
「しんどい、こんなのはもうやりたくないと思ったら、もう終わりですから。全部経験だなと思って、前向きに過ごしています。」
すべて「次」のため。そう思って伊藤は四国での日々を過ごしている。
その「次」は、必ずしも野球に関係することではないと伊藤は言う。
「野球の指導者もありですが、それが全てじゃないと思います。野球以外のことにも、すごく興味もありますし、人生一度きりなんで、いろんなことを経験したほうがいいなと思います。」
32歳。名門慶応大学を出た大学時代のチームメイトは、もう一人前の企業戦士としてビジネスの最前線で活躍している。そういう彼らの姿を目にすると、野球だけでなく、多方面での可能性を自分の中で模索したくもなる。
NPB復帰を第一に掲げてはいるものの、その「次」が近づいていることを伊藤は感じてもいる。3月27日の開幕戦。伊藤は3番レフトでスタメンに名を連ね、3打数1安打と上々のスタートを切ったかに見えたが、古傷の右肩を痛めてしまった。ここ3年で3度目の脱臼。完治には手術が必要と言われたが、1年勝負と決めている。伊藤は投げることはもう諦め、打撃でチームに貢献できるまで直そうと、現在、コーチ業の合間を縫ってリハビリに励んでいる。
叩かれても情報発信する理由
一軍出場のなかった現役最後の2年間は、伊藤にとって決して心地の良いものではなかった。会食によるコロナ感染は、ファンのバッシングの対象となり、野球に集中できなかったのかもしれない。そのバッシングは阪神退団時にも起こった。戦力外通告を受けた顛末をユーチューブで公表したことからさらなる批判をネット上で浴びたのだ。
それでも伊藤は今でも、ユーチューブだけでなく、インスタグラム、ツイッターなど様々なソーシャルメディアで発信を続けている。これについて伊藤はこう語る。
「これからの時代、自己メディアをもつことは大事なことだと思っているんです。阪神時代は、出してほしくないような情報までもメディアに勝手に出てしまう状況だったんでどちらかといったら閉ざすような感じだったんですけれども、今となれば、僕のことを知っている人なんてそんなにいないわけじゃないですか。今ここで試合をしているんだけれども、肩をけがしていて僕は試合には出られない。それでも、こうして取材を受けている。そんなことは誰も知らないわけなんです。今までは何もしなくても知られていたものが知られなくなるんで、じゃあ自分から発信をして知ってもらおう。今はその手段があるので、使わない手はないということです。だって、野球選手は知ってもらってなんぼでしょう。自分がこういう人間だ、こういうことをしていますというのを発信し続ける、そういう時代だと思うんです。」
伊藤のそういう思いとは裏腹に、そんなことやっている場合ではないだろう、本気でNPB復帰を考えているのなら、野球に専念しろという声は根強い。そういう外野の声を伊藤は時代遅れだと考えている。
「ある先輩にお前は何がしたいんだとも言われました。でも、僕からすれば、自分のことを発信して何が悪いんですかと逆に聞きたいくらいですよ。北米四大スポーツの選手なんかもオンラインサロンを開いたりして事業化している人もいます。野球選手だって24時間野球をしているわけではないでしょう。ご飯を食べて、テレビを見てゆっくりしている時間をそっちに使えばいいんじゃないですか。」
双方向のSNSでは時として辛辣な意見も入ってくる。それでもそれも含めて自らの情報発信に対する反応は、モチベーションにつながっているという。
日本一の人気球団と言っていい阪神タイガースのユニフォームを着ていた伊藤の目には、観客数百人という独立リーグの現実はいっそう厳しく映る。さらに言えば、愛媛マンダリンパイレーツは、コロナ禍の中、今年も無観客試合を経験している。プロ野球選手は注目されてなんぼ、ということを身に染みて分かっている伊藤は、だからこそ、情報発信を続ける。
「ファンの方にはもっともっと球場に来てほしいです。僕のことを含めてチームのことも知ってもらいたいですね。」
「野球の都」、タイガースを離れて、今、伊藤隼太は、独立リーグで人生の「次」を模索している。
(文中の写真はすべて筆者撮影)